未来を照らす(43)テレビタレント 中山秀征さん

デビューから40年以上、テレビ界で活躍し続けるタレントの中山秀征さん。
出演した全員を輝かせる巧みなMC術(進行役)には定評があります。
これまでの仕事を振り返り、これからのテレビについてお話を伺いました。

1967年群馬県藤岡市生まれ。テレビタレント。14歳でデビューして以来、40年以上にわたり、バラエティ番組や情報番組の司会、俳優、歌手として活躍している。
中学2年の秋から今日までテレビ界で生きてきた
長年ぐんま大使を務めています。群馬県をどのように盛り上げていますか?

ぐんま大使は僕と井森美幸さんが2008年に就任し、今年で17年になります。その役目は、まず僕たちのポスターを制作してPRします。そして年に1回、リトリート(日常から離れ、心と体を癒やす旅)の映像を僕と井森さん、それぞれで作ります。今年は二人バージョンで、温泉地や自然、食など群馬県の魅力をたどっています。
テレビの企画で、茨城県・栃木県・群馬県の北関東の三つ巴戦に呼ばれると、群馬のよさを紹介します。ずいぶん群馬の話をしているのですが、魅力度調査の順位は変わりません(笑)。24年は41位。
魅力度調査では順位が低いのに、人気の温泉ランキングでは草津温泉が1位。草津温泉も伊香保温泉も群馬県と知らずに行っている人が多くて、もっと群馬県だと伝えたほうがいいと言われます。もう2万回ぐらい言ってるんですが(笑)。
芸能界に入るきっかけは何ですか。

僕が5歳のとき、地元のテーマパークの流れるプールのステージで、フィンガー5が歌うというのです。流れるプールが流れないぐらい(笑)、人で埋め尽くされました。その観客の一人が僕です。
メインボーカルの晃と歌おうというコーナーがあり、参加するために並びましたが、僕の前の人で締め切られてしまった。「いつか僕もスターになって、あのステージに立ちたい」と思ったのが、芸能界に興味をもった最初のできごとです。
それからは芸能界に入るために、女の子とのツーショット写真は撮らない(笑)、サインするために書道を習う、少年野球もやる。みんなの目標はプロ野球選手や甲子園出場ですが、僕は芸能人野球大会に出ること(笑)。
芸能人になるためには劇団に入らないといけないとクラスの女の子に教えられて、両親に劇団を受けたいと懇願して通い始めます。芸能界への第一歩は中学2年生の秋でした。
デビューから今までの芸能生活を書いた著書『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』には興味深い話がたくさんあります。芸能界に入ってからの道のりを教えてください。

中山秀征著 新潮社刊 1,650円(税込)
『週刊新潮』で連載したコラムを再構成。共演者の魅力を引き出すMC術とリーダーシップ。テレビ界を生き抜く著者の、超ポジティブな人生論。
17歳で渡辺プロダクションに入って、歌でデビューしましたが、なかなかうまくいきません。しばらくして渡辺プロにバラエティ部門が生まれ、マネジャーに「これからはバラエティの時代になる」と言われて、藁にもすがる思いで移りました。断ると群馬に帰るしかありませんから。お笑いは考えたこともなかったけど、ABブラザーズとして松野大介さんとコンビを組みます。そして、小堺一機さんが司会の『ライオンのいただきます』でメディアデビューしました。
しだいにテレビに出られるようになり、司会の仕事が多くなっていきます。この時期は、テレビに出ていることがうれしかった。やがてレギュラー番組が増えていきました。
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『DAISUKI!』は人気番組でしたね。現場はどんな感じでしたか?
歌手デビューから8年目の25歳のとき、松本明子さんと飯島直子さんと僕で『DAISUKI!』が始まりました。
松本さんとは同じ渡辺プロで、寮生活の時代から一緒の、同じ釜の飯を食べた10年来の親友です。「いつか一緒にレギュラー番組をやりたい」と夢を語っていました。
飯島さんとは初対面。こうしたらイメージが悪いとか、よく見えるとか、タレントは少なからず考えますが、飯島さんはそのまんまの人でした。
収録で釣りに行ったとき、釣りを始めて5分、飯島さんが「つまんないんだけど」と言い出して(笑)。それ言うと終わっちゃうと思ったら、松本明子というスペシャリストが話を展開して、3人の物語ができていったのです。
松本さんがすごいのは、直ちゃんの発言をフォローするわけでもなく、自分のペースで釣りをして話していく。話題によっては、直ちゃんと組むこともできる。また、全員が分かれても成り立つ。直ちゃんと僕が組んで、松本さんが1人になってもかわいそうに見えない。松本さんのおかげで、直ちゃんが日常の顔を見せてくれる感じが、ほかの番組にはないものになりました。流れとノリが画期的で、まさにドキュメンタリーです。直ちゃんが変わっていく姿もそのまま出ていました。台本(ほん)がない番組で、なるべく編集しないからでしょう。
それまでのバラエティは台本があって、稽古を積んで作り込むドリフターズ的なものでした。それを破壊したのが『オレたちひょうきん族』。それよりも台本がないから、もっと新鮮だったのです。この番組が僕の原点です。
今田耕司さんとは、お互いのMCに対する考え方の違いがあったそうですが。

93年、土曜日深夜に今田耕司さんと僕と二人がMCで、『殿様のフェロモン』が始まりました。お酒飲みながらワイワイとゲームをしたり、『オールナイトフジ』のような楽しい番組の予定でした。
今田さんは東京でのピン(一人)のレギュラー一発目だったので、ピリついた空気でした。関西の人は、関西で勝った後に、東京でもう1回勝たないといけない。だからすさまじかったのでしょう。今田さんは胸に拳銃(ちゃか)を潜ませて、僕を狙いにきている感じ(笑)。真剣勝負でした。今田さんは、どっちが強いのかすぐ決着をつける戦い方。僕は60分フルタイムかけて、全体を見ながら、誰かがすべっても拾いながら盛り上げて戦うショーアップ。
番組が終了して15年ほどたったとき、今田さんから飲みたいと誘われました。「あのときは迷惑かけた。テレビのこと、わかってたのは秀ちゃんだけやった」とおっしゃる姿に、頭が下がりました。朝まで酒を飲みました。それ以来、今ちゃんとはいい意味で戦友です。
MCで番組を盛り上げるために、何が一番大切だと思いますか。
こうしたらこうなるという法則はありませんが、今までの僕の経験から、作り手が気負った番組は結果がよくなかったと思います。主役ばかり揃えると、だいたい当たらない(笑)。野球の打順と一緒で、一番はこう、2番は、3番はというように、番組の中で役回りがあると、それぞれ力が発揮できます。そうなると楽しくなりますし、それが回り出すと、番組は勝手にいい方向に進みます。ゲストが「楽しかった」「ついついしゃべっちゃった」と言って帰るのが、僕の一番の喜びです。
近年、若い人はテレビを観なくなっています。これからのテレビに期待すること、やりたいことは何ですか。

YouTubeなど、テレビ以外でできるツールが増えたので、テレビでできることを探らなければいけないと思います。
テレビの強さは生放送です。ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』は満員のお客さんを前にした生放送だから、期待と緊張感が画面にも出ていました。
本番の屋台崩しで、1センチずれても大怪我をします。どれだけタイミングをはかって稽古して、作り込んで、生の一発に賭けていたか。そこには研ぎ澄まされた集中力と戦いがある。だから笑いになったのだと思います。
僕は、『今夜は最高!』というタモリさんがやっていた番組を、今風にやったら面白いだろうと考えています。コントがあって、トークがあって、歌がある。そこから笑いが起きる。CGなど最先端の技術も使うけれど、昔の香りのするものを作りたいのです。
最後に団地の印象を伺えますか。
子どもの頃、友達が団地に住んでいて、遊びに行くとビルディングが輝いて見えました。昔は平屋の一軒家が多かったですから、階段を上がって家に行くのも新しかった。
玄関のドアの内側にチェーンの鍵があって、のぞき窓がある。映画の『007』みたいだと思いました。また、寝食分離の洋式の暮らしは、昭和の子どもには憧れでしたね。これからは団地サウナなんて、いいんじゃないでしょうか?
【小西恵美子=文、菅野健児=撮影】
【P3の衣装:ジャケット ¥62,700、パンツ ¥69,300/デンハム(デンハム ジャパン TEL:03-3496-1086)、
ニット ¥26,400/ハリウッド ランチ マーケット(聖林公司 TEL:03-3461-9043)】
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