未来を照らす(42)お笑いコンビ「銀シャリ」 橋本直さん
お笑いコンビ「銀シャリ」の橋本直さんは、日常の小さな違和感にツッコミを入れ、
その面白さを笑いにつなげる漫才の仕事が、楽しくて仕方ないと話します。
脳内を駆け巡る細かすぎることを一冊の本にまとめると、あらためて自分が見えてきました。
たくさん観てきたお笑いが僕の基盤のデータ
エッセイ集『細かいところが気になりすぎて』が出版されました。原稿を書いて感じたこと、わかったことは何ですか。
文章を書く作業は自分の脳内を巡っているものをどう表現するかですから、むずかしかったです。しゃべるのとは別のジャンルだと思いました。
これまで雑誌に連載していたものをまとめ、全部の原稿を通しで読んで、僕の細かさを再認識しました。文章でもしゃべりすぎてて(笑)。僕は日常のちっちゃいことがめっちゃ好きで、面白いと思っていて、それを表現したいんだ、ということがくっきり浮かび上がりました。この原稿を書いたおかげで、それが僕の不滅のテーマだとわかりました。
みんなご飯食べるし、お風呂に入るし、洗濯する。そういう日常で感じるちょっとした違和感をブツブツ言いたいんです。
あるとき新宿を歩きながら、お笑いをやめたらどうなるかなと考えていました。で、ラーメン屋に入ると、その店のメニューが変わってて、「これ、どんなラーメンか、わかるわけないやろ」「どれ食うたらエエねん」と心の中でツッコんで。芸人やめたら、これライブでしゃべられへんのかと思ったんです。
僕は細かく考えて、いっぱいツッコんで、モヤモヤした違和感を僕の思考回路で浄化する、それをライブでしゃべりたいんやとわかりました。
『細かいところが気になりすぎて』
橋本直著 新潮社刊 1,650円(税込)
どうしても見つけられないホテルのWi-Fiのパスワード、オシャレすぎて解読不能なカフェのメニュー表、倒した覚えがないのになぜか倒れている飛行機の座席……。どんな些細な出来事も見逃さず、神羅万象にツッコミを入れ続ける全20編のエッセイに、相方・鰻の4コマ漫画も掲載した初の著書。
養成所(NSC吉本総合芸能学院)に入って、芸人をやっていける、続けていこうと思ったのはどういうところですか。
何者にもならんかったら、26歳でやめようと期限を決めていました。3年間ぐらいはコンビ組んだり解散したりして。今の相方の鰻(和弘)と出会う前から、養成所でちっちゃな賞をもらったり、オーディションにも受かっていたので、下積みという感覚はなかったんです。M-1グランプリも優勝(2016年)して、芸人を辞めようと思うことなくきたのは、恵まれていてありがたいです。
でも、それがコンプレックスでもあります。これだけ苦労してとか、不遇で日の目を見ない日を過ごしてとかいうストーリーがない。ただお笑い好きやった少年が、ゆっくり1段ずつ階段を上がって行く。それじゃあ誰も興味ないですよね(笑)。
恵まれていただけではないと思います。何かなさっていたのでは?
僕はめちゃくちゃお笑いが好きやっただけやと思います。芸人になる前からお笑いマニアで、とにかく劇場でライブを観て、テレビや映像もいっぱい観て、自分の中にストックしている量が多かったんだと思います。
でも、飲み会とか、先輩との付き合いは不得意です。昔は先輩のライブに行くと、楽屋に挨拶に行って、舞台袖から観て、終わると感想を聞かれて、飲みに行こうと誘われる怖さがありました(笑)。今は配信のチケットを買えるので、面白かったところは何度でも観られるし、感想言わなくてもいい(笑)。いい時代です。
観たものが僕の基盤のデータとなり、その上に新しい自分の土台になるものができていくと思います。基盤がないとグラグラします。基盤のデータがいらない天才タイプの人は別ですが、僕はコツコツ型で、人の芸をいっぱい観て、これは多いからかぶらんようにしようとか研究します。それが勉強という感覚もなく、好きやからやってたんで、好きなことが仕事になってるから楽しいんです。
お父さまは読書家だったそうですが、影響は受けなかったのですか。
受けなかったです。僕が学生時代に親父は46歳で他界しました。親父は「本やったら、いくらでも買うたる」って言ってました。漫画を買ってほしかったけど、漫画は本とみなされず。親父の部屋に本が入らなくなると廊下にまで本棚が置かれ、廊下の幅が半分になっていました。
親父の兄である伯父に、本が出ることを伝えたら、手紙がきました。「親父も喜んでる。これはすごいぞ」と書いてありました。
人前に出るのが苦手だけど、「漫才師の魔法」がかかると平気だと本に書いてありました。お笑い以外でも徐々に慣れたりしませんか。
慣れないです。たぶん漫才師ではないときの自分に自信がないからでしょう。僕は幼少期から自己評価がすごく低いんです。普通に考えたらおかしいですよね、そんなやつが芸人になるわけないです。
漫才以外では、誰も僕に興味ないだろうという感覚がいつもあって、そのスタンスが消えません。だから後輩を食事や飲みに誘えないんです。卑屈でねじ曲がっています。何回もねじれをほどこうとしたけど、ほどけなかった。
漫才師として人前に立つと、「めっちゃウケるぞ!」っていう気持ちになります。お笑いを観たい人とお笑いをやりたい人の需要と供給にしっかりお応えしようと思うんです。
でも普通のスピーチとか、恥ずかしくてしょうがない。こういう撮影やインタビューはめちゃくちゃ照れます(笑)。
家では奥さまがいらっしゃいます。脳内おしゃべりのバランスはどうですか。
僕が細かいのはわかってくれてますから楽です。結婚して自分のあかんところがよくわかりましたね。一人暮らしのときは脳内でしゃべってるのを意識してなかったけど、独身時代の思考回路は、もう終わりやと思ったりします。
たとえば、僕はしたいことあるけど、奥さんは今、めっちゃしゃべってる。僕はちゃんと聞いてなくて話が頭に入ってこない(笑)。どうしよう、これ、僕、どういう態度したら一番平和にいくかなと考える。今、奥さんはゾーンに入ってるから、ここで聞いたらあかんとか、脳内で何かしらしゃべっています。
こういうのが嫌じゃなくて、自分をコントロールできるようになってきて、面白くなったんです。一方で、人間的な“橋本”が出てきてるんで、やっと、人としてちょっと厚みが出そうです。
幼い頃から細かかったのですか。どのような子どもでしたか。
小学生の頃はランドセルに教科書、全部入れて、重たいけど忘れものが絶対ないようにしたい完璧主義でした。
それがあるとき塾で解答用紙に答えをゆっくりきれいな字で書いていたら、時間がきてしまった。ここはきれいさを求めていないと認識すると、今度は一気に速さと正しい答えを求めて書きなぐる、極端な小学4年生でした(笑)。
家では父親が厳格やったんで怖かったし、学校でもピリついてるのが嫌でした。回避できるならばしたいと思って、常に空気を読んでいました。しかも正義感が強いから、めんどくさい子でしたね(笑)。
40歳を過ぎたぐらいから、いいカッコしいなところが、やっと消えてきた感じがします。それまでは正義感や承認欲求やしがらみがしんどかった。やっと楽になってきました。
47都道府県の全国ツアーはいかがでしたか。
コロナ禍が開けて、全国ツアーを始めました。チケットは完売、ありがたいことです。すると、もっとテレビに出て、もっと仕事して、人気者になって、と野心が出てきた。でも実態を伴っていない野心の気がしてきて、「足るを知る」だろうと。お客さんに来年も来ていただくためには、まず今日の目の前のお客さんに楽しんでもらうことだと思っています。
話は変わりますが、団地の思い出はありますか。
兵庫県尼崎市に住んでいましたが、阪神・淡路大震災の影響があったので、伊丹市に引っ越しました。子どもの頃は友達が団地に住んでいたので遊びに行ってました。おばちゃんやおじいちゃんがお菓子くれたり、可愛がってくれたりして。団地には公園があるのも羨ましかった。敷地が広いから隠れんぼが楽しかったですね。
近所にものを借りに行ったりしているのも、団地の人たちのチーム感があって、いいなと思ってました。団地の友達はみんな一緒に通学して楽しそうだし、「◯棟」とか言うのもかっこよかった。
今、90歳をすぎた祖母は団地で元気に一人暮らしをしています。周りの人たちが声をかけてくれて、人に囲まれていて、団地はいいなと思っています。
【小西恵美子=文、菅野健児=撮影】
【スタイリスト=石黒祥江】
【衣装協力=HAFEN JKT、HAFEN PANTS シテラ TEL:03-5493-5651/dw polyester shirt 原宿シカゴ TEL:03-6427-5505】
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