未来を照らす(9)歌手 クリス・ハートさん
アメリカで聴いたJ-POPに魅せられ、日本を大好きになった少年が、日本のテレビ番組で優勝して歌手デビュー。
まさに男性版シンデレラストーリーを体現したクリス・ハートさん。
誰よりも日本を愛し、日本人のハートを魅了するその歌声には「自分の歌が誰かの力になれば」という強い想いが込められている。
クリス・ハート
1984年アメリカ・サンフランシスコ生まれ。両親がミュージシャンだったこともあり、幼少の頃から音楽に親しむ。13歳のときに日本にホームステイ。その後、日本語を独学し、2009年来日。自動販売機の営業の仕事をしながら、2012年にテレビ「のどじまん ザ!ワールド」に出演、見事優勝を飾り、2013年5月「home」でデビュー。カバーアルバムやオリジナル曲をリリースし、NHK紅白歌合戦に2年連続出場を果たす。
この夏は「情熱大陸SPECIAL LIVE SUMMER TIME BONANZA‘16」に出演。10月から「第2回47都道府県ツアー~my hometown~」がスタートする。
中学生のときから憧れ続けた日本
アメリカのサンフランシスコで生まれ育ち、2009年から日本に住んで7年がたちました。日本に興味をもったのは、中学生のときにたまたま日本語のクラスに参加してから。その後、日本人コミュニティー向けのテレビ番組で日本の音楽などを聴いて、日本という国が大好きになりました。運命のような感じです(笑)。
13歳のとき、茨城県の新治(にいはり)村(現土浦市)に2週間のホームステイもしました。おじいさんとお父さん、お母さん、僕と同年代の男の子のいる家庭で、みんなで朝ごはんを食べて、学校のことなどいろいろ話すんです。家族がひとつにつながっていて、家族のために頑張るという一体感がすごくよかったし、日本人の優しさや日本の美しさを自分の目で見て、アメリカに帰っても「もっと日本のことを知りたい、早く日本に帰りたい」と思うようになりました。
それからの10年は、バンド活動をして日本語の歌詞を勉強したり、日本語を使える仕事を探したりしていました。
24歳のとき、やっと日本で仕事をするチャンスを見つけて、日本に来ました。それからは、生まれ変わったような感じで、できる限り日本人と同じ生活をしようと思って、毎日、日本語だけで生活しました。
最初に住んだのは東京の下町の人形町です。商店街があって、皆さんあったかくて優しくて、下町にしてすごくよかったですね。住んでみて、自分も日本人みたいに優しくなりたいとか、もっと相手の気持ちを考えたいとか、真似したいことや知りたいことがいっぱいあって、日本のことがさらに好きになりました。
その頃は、日本に住むだけで十分だと思っていて、歌手になりたい気持ちはありませんでした。両親とも音楽が好きだったし、僕も好きだったけど、センターステージに立つのは恥ずかしいし(笑)、後ろのバックコーラスならいいかなと思っていたくらい。いまでも、たまに恥ずかしいです(笑)。
妻との出会いが、歌手になるきっかけに
妻に出会ったのは、その頃です。お互い音楽の練習のためにユーチューブに動画をアップしていたんですが、妻が「コラボ動画を作りましょう」と連絡をくれたんです。
僕はその頃、仕事で全国を回っていたので、彼女の住む大阪に仕事で行ったときに会って、動画を作ろうという話になりました。そして、会ったとたん「この人は特別な人。この人となら、どんな大変なことがあっても一緒に成長していける」と思いました。運命の出会いでしたね。3日後に付き合い始めて、2週間後にはプロポーズをしました。
妻と出会ってから、すべてが変わってきました。彼女が東京に引っ越してくる前、銀座でデートをしていたら、たまたまテレビ局のスタッフから「二人の出会いを知りたい」と声をかけられたんです。そして番組で歌を歌ったら、そこからまた次の番組出演へとつながって、2012年3月にテレビの「のどじまんザ!ワールド」で優勝したんです。それがデビューのきっかけになりました。
それにもエピソードがあって、2回目の出演の前、何を歌おうかと悩んでいたら、妻が「あなたには木山裕策さんの『home』が合ってるよ」とアドバイスしてくれたんです。ちょうど結婚式をする前だったので、家族を思う気持ちが、とてもぴったりきました。
でも、詩のなかの茜色という言葉の意味がよくわからない。英語には同じようなフレーズがないし、ずっと考えていたんですが、仕事から帰ってくる途中、商店街を歩いているときに、やっと気づいたんです。茜色って、色のことだけじゃなくて、家族のために一日頑張った気持ちなどのメッセージが込められているって。その気持ちを込めて歌ったらとても反応がよくて、結局、その曲がデビュー曲になりました。
日本の歌はアメリカの音楽と違って、すごく歌詞が大事なんですね。アメリカで日本語の歌詞を書いたこともありましたが、どんなにきれいな言葉を選んでも、うまく伝わらないところがありました。日本に住むようになって、言葉やメロディだけじゃなく、その奥にある文化を勉強しないとうまく歌えないとわかりました。
たとえば「桜」という言葉。外国人の友達に「なんで、日本人はそんなに花が好きなんだ」って聞かれるけど、桜には「花」という意味だけでなくて、その季節にある出会いや別れ、新しいチャンスや思い出が全部表現されているんですね。
これはきっと、一生の勉強になると思います。
人の気持ちに寄り添うセラピーのような歌を
今年の2月に子どもが生まれました。ちっちゃくて、かわいいですね。ちょうどオフで出産にも立ち会えたし、おむつ替えやお風呂、ミルクをあげたりと、できる限り妻のサポートをしています。
家の中ではずっと日本語ですが、僕の両親とも話せるようになってほしいから、子どもには僕が英語で話しかけています(笑)。でも、最初の2カ月は英語がうまく出てこなくて、妻から「もっと英語を使って」とクレームが出ました(笑)。
子どもが生まれてからは、よその子どものこともすごく気になるようになりました。公園で遊んでいても、危ない場面を見かけると自然と声をかけたり、お父さん目線になっています。住む場所も、子どもがたくさんいて公園がある場所で育てたいなといまから考えています。
音楽に関しても、変わってきました。家族をテーマにした曲では、子どもが生まれる前は「自分の家族ならこうなるかな」と想像して歌っていました。いまは感情がよりリアルになりましたね。
僕は小さい頃から誰かの力になりたいと思ってきましたが、音楽にも人の力になれるチャンスがあると思っています。去年、こんなことがありました。ライブの後の握手会に、ある女性が参加してくれて「3ヵ月前に娘が亡くなって、つらくて家から出られなかった。初めて外出したこのコンサートで『いのち My song for you』を聴いて、また頑張れる気持ちになりました」と言ってくれたんです。
僕も来日する前に、ずっと応援してくれていた祖母を突然の病気で亡くした経験があります。歌手になる前は、そうしたつらさや悲しさを人前で出すのは、恥ずかしいことだと隠していました。でも、いまは同じような経験をしたからこそ、恥ずかしさを乗り越えて自分の気持ちを100パーセント見せて、「僕にも同じような経験があるよ」「一人じゃないんだよ」と歌を通して伝えられると思ったんです。
デビューしてからたくさんのファンの皆さんから手紙をいただきましたが、そのなかにはうれしくて楽しい経験のほかに、つらくて悲しい経験も書かれています。そうした感情を自分の中に隠し持っていたら、元気になるのは難しい。だからせめて僕のライブを聴いている間やCDを聴く5分間だけでも、涙を流したり、少しだけ笑顔になって、気持ちの整理ができる可能性があるなら、頑張って歌いたい。僕の歌が、そんな「セラピー」のような役割になれたらと思って、いまではそれが歌う理由になりました。
いま、日本への帰化の申請をしています。日本で生活して、自分も皆さんと同じ生活をして、同じ責任を持ちたい、と思うようになったからです。日本人になれば、日本人が大切にしている文化やまち、コミュニティーもよりわかるだろうし、もっといい仕事ができるように思います。そして、歌を通して、日本のよさをもっともっと紹介できればと思っています。
【阿部民子 = 構成、佐藤慎吾 = 撮影】
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