街に、ルネッサンス UR都市機構

未来を照らす(26)役者 梅沢富美男

URPRESS 2020 vol.63 UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]


大衆演劇の劇団を率いる両親のもとに生まれ、初舞台は1歳7カ月のとき。
以来70年近くにわたり、役者として数多の舞台を踏み、観客を魅了してきた梅沢富美男さん。
歌手として、またテレビや映画など多方面で活躍中ですが、
自らの軸は、お客様に喜んでいただく「大衆演劇」にあると語ります。

うめざわ・とみお
1950年生まれ。福島県出身。「梅沢富美男劇団」座長。大衆演劇隆盛期に活躍した花形役者の父・梅沢清と娘歌舞伎出身の母・竹沢龍千代の5男として誕生。1歳7カ月で初舞台を踏み、15歳から兄・武生が座長を務める「梅沢武生劇団」で本格的に舞台に立つ。20代半ばに女形で人気を集め、大衆演劇界のスターとなる。2012年に劇団を引き継ぎ座長に。幅広い役をこなし、脚本・演出・振付も手がける。テレビドラマや映画のほか、バラエティにも出演。俳句や料理も得意。

劇団一家に生まれた梅沢さんが、役者として生きていく決意をしたのは、いつ頃でしょうか。

義務教育は受けるようにという両親の考えで、小学生になるときに福島の祖母の家に預けられました。当時はちょうど娯楽がテレビや映画へ移行した頃、舞台は衰退の一途で、家はとても貧しかったです。給食費が払えなかったので、僕は小学校2年生から給食を食べた経験がありません。12時5分前になると、先生が声をかけてくれて、校庭に出て遊んでいました。「教室にいるのがつらいだろう」という、先生の思いやりですよね。

中学を卒業して15歳から本格的に舞台に上がりました。けれども劇場は小さいし、厳しい稽古を何年も重ねても芽が出ない。一方で、まちなかでスカウトされた顔がよくて演技ができない男が、ドラマに出て人気を博す時代。そんな20代の半ば頃に、一度だけ役者を辞めようと思ったことがあります。

当時、漫画家の石ノ森章太郎先生にかわいがってもらっていました。先生の奥様のお母様とうちの母親が友達で、お芝居を観てもらったのがご縁でした。

それで、先生に辞める挨拶をしに行ったのです。辞める理由を聞かれて、いろいろな思いを説明するのも難しいので、一言「壁ですかね」と言いました。そうしたら、「壁というのは、世間から認めてもらった人のものだ。俺が何を描いても仮面ライダーしか描けないと言われたら、それは壁だ。でも、おまえが役者をやっているなんて誰も知らないだろう。おまえは必ず売れるから、生意気なことを言わずに頑張って続けたらどうだ」と言われて。トンカチで頭をたたかれたようなショックでした。それでもう一度頑張ってみよう、と思ったのです。

一度は辞めようと思った役者人生。転機となったのが、「下町の玉三郎」と称される女形だ。

「下町の玉三郎」と称され、役者人生の転機となった女形。

女形をやるきっかけも、石ノ森先生でした。辞めたいという話をした半年後に、先生から、ちあきなおみさんの「矢切の渡し」をリクエストされたのです。座長をしていた兄貴に話したら、「これは男女二人で踊る相舞踊だから、おまえが女形をやれ」。女形なんてやりたくなかったですが、石ノ森先生からの話を断るわけにもいかず、兄貴からは「女のことはよく知っているだろう」と言われて(笑)。それで母親に踊りを教えてもらって、自分でメークしたら、あの顔になりました。この空間の中で自分が一番いい女だと思って演じるしかない、と腹を括りました。

先生はご覧になって何もおっしゃいませんでしたが、別のお客様から「こんなすごい役者さんは見たことがない。あなたは売れるわよ」と言われました。その言葉どおり、32歳で出演したTBSドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」と、「夢芝居」の大ヒットで火がついた。遅咲きの開花でしたね。

大衆演劇では義理人情の世界を大事にしているそうですね。

大衆演劇という言い方がポピュラーになったのは、僕らからなのです。それまでは“ドサ回り”などと言われ、差別もありました。大衆演劇とは文字どおり、お年寄りから子どもまで楽しめる大衆のための演劇です。舞台で繰り広げられるのは身近で理にかなったお芝居と、夢のような踊りの世界。

両親や兄貴からは「お客様が見たいと思う、きれいな世界を見せなさい。嫌なことをすべて忘れて、楽しい気持ちで帰っていただけるように」とよく言われました。

お芝居では、日本人の義理人情を大事にしています。その大切さに改めて気づかされたのが、東日本大震災後の出来事です。

郡山の体育館に物資を届けに行ったとき、岩手の大船渡から避難していたおばあちゃんに会いました。話を聞くと、津波で息子さん夫婦と2人のお孫さんを亡くし、たった1人助かった。「もし神様がいるんだったら、私の命と交換してほしい」と泣くのです。かける言葉が見つからないでいたら、隣にいた中学2年生の女の子が「おばあちゃん、せっかく助かった命なんだから頑張りましょう」って。聞いたら、彼女も両親を亡くして、1人残されたのだと。

その様子を見て「こんな子どもにも、日本人の人情が宿っている」と感動しましてね。時代が変わって義理人情の話が通じにくい世の中ですが、だからこそ人情芝居を続けなくては、と教えられました。

これまでで最高の褒め言葉だとうれしかったのは、青森県藤崎町の町長さんに言われた言葉です。藤崎町は母親の生まれ故郷で、市民会館ができたのをきっかけに、毎年公演を行っています。

年配のお客様が多いのですが、あるとき町長さんに「梅沢さんたちの舞台の後の忘れ物で、何が一番多いと思いますか?」と聞かれました。「傘ですか?」と答えたら、「杖です。皆さん、来るときは杖をついてくるのに、梅沢さんの舞台を見て元気になって、帰りは杖を忘れて帰るんです」と言われて。それを聞いたときに、最高の勲章をもらった気持ちになりました。

「梅沢富美男劇団」の公演(日本橋浜町の「明治座」)。

最近は、バラエティやコメンテーターとしても大活躍です。

梅沢富美男さんの画像

コメンテーターのお話があった当初は「中学しか出ていないから」とお断わりしていたのですが、あるときテレビのニュースを見ながら怒っている家族の姿を見て、「こういう一般人の代弁だったらできるかもしれない」と思い、お受けすることにしました。僕は嘘をつくのが大嫌いだし、思ったことをズバズバ言うので、ネットで炎上したり、“老害”なんて言われたりすることもありますけれど(笑)。

バラエティでも、大衆演劇の経験が役に立っています。舞台では、よくお客様を色に例えます。「今日のお客さん、黄色っぽいね」とか「白っぽいね」など。わかりやすく言うと、「笑いを求めてる」とか「泣きたいんじゃないか」ということ。演じながらそれを感じて、お芝居の趣向をその場でパッと変えるのです。それを長年やってきたものですから、バラエティでも、すぐにその場の色に染まれる。それがよかったのかもしれません。

でも、やはり自分の中では舞台の役者が最高だと思っています。なんといっても、お客様がお金を払って見に来てくださるのですから。

家族が一番大切だと常々おっしゃっていますが、家族を守るために防災など気をつけていることはありますか。

家を建てるときに、僕が唯一こだわったのは、居間を中心に据えること。出かけるとき、帰ってきたとき、全員が必ず居間を通って顔を合わせるような間取りにしてほしいとお願いしました。「いってきます」「ただいま」は家族団らんの合言葉ですし、何かあっても居間に集まり家族で協力し合えるようにと思いました。

もうひとつ、生活用水用に井戸を3つ掘りました。災害が起きたときに一番困るのは水だと思うので、万が一のときには隣近所の方にも使ってもらえればと。芝居の台詞にもありますけど、「向こう三軒両隣」とか「遠くの親戚より近くの他人」と言いますよね。隣近所に住んでいる人同士、仲良くしましょう、というのが僕のポリシー。それがいざというときの防災にも役立つのではないでしょうか。

8年ぶりの新曲「ノスタルジア」への思いを聞かせてください。

本来、アーティスト側から「こういう歌を作ってほしい」なんていうのは生意気なことですが、作曲してくださった伊藤薫先生にお願いしたことがあります。

「できれば僕と同じ世代の方たちに、“あんな時代があったな”“あの頃に戻ってみたい”“俺も梅沢富美男と同じような人生を歩んできたな”と共感してもらい、人生を振り返るような歌を作っていただきたい」と。手前味噌になりますが、願いどおりの曲に仕上がったと思いますので、聞いていただけるとうれしいです。

8年ぶりにリリースされた待望のCD「ノスタルジア」
作詞・作曲:伊藤薫
編曲:若草恵
TKCA-91277

【阿部民子=構成、菅野健児=撮影】
【ヘアメイク=hijiri】

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