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角田光代さんエッセイ 暮らしのカケラ(23) ふつうだけど、ふつうではない

URPRESS 2022 vol.72 UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]


エッセイ画像photo・T.Tetsuya

二〇二二年の十月に、政府は、訪日外国人観光客の入国制限を緩和した。私はただ情報としてそのニュースを見聞きしていたのだが、その数日後、所用があって新宿に赴き、外国人旅行者の多さにびっくりした。あきらかに観光客とおぼしき外国人のかたがたが大勢いる光景はあまりにもひさしぶりだった。しかしそれよりも、ニュースと現実の時間差のなさに驚いた。

個人旅行が解禁されたとはいえ、実際に海外からの旅行者が増えるのは来年くらいじゃないかと、なんとなく私は考えていた。早くても一、二か月後。まさか数日後とは思いもしなかった。

ではそう思った根拠は何かと考えると、自分の感覚でしかない。旅が唯一の趣味の私は、この三年間、異国を旅したいという気持ちを、あえて封印していた。旅先で入国後の隔離がなくても、日本に帰って二週間の自主隔離はできないよな、とか、たまたまニュースで見た、東洋人が乱暴される映像を思い出し、今は旅はこわいからよそう、とか、自分にわざわざ言い聞かせて、旅したい気持ちが萎えるように仕向けていた。

ヨーロッパは入国時の制限はなくなった、タイは観光客の受け入れが再開した、韓国はビザなしで入国できるようになった等々、ニュースで知るたびに、旅欲がちらりと頭をもたげるのだが、「いやいや、待てよ」と、幾度も鎮めてきた。旅できますよ、観光できますよ、と手招きされても、「もうちょっと様子を見なければ」と思いこんでいた。旅欲を鎮め慣れてしまったのだし、かつてないほど旅腰が重くなったのだ。だから、全世界のだれもがそうなはずだと、無意識に思いこんでいた。まさか制限緩和の数日後に、嬉々として旅しにくる人がいるなんて思いもしなかった。

その後、海外からの旅行者をどんどん見かけるようになった。制限緩和の一か月後の銀座では、中央通り沿いに観光バスが並び、観光客がどんどん降りてきてガイドさんのもとに集まっている光景を見かけ、たった三年見なかっただけだが、妙に深いなつかしさを覚えた。そうか、私って少数派なんだなあとそのとき思い知った。

いや、もしかしたら日本のなかでは多数派かもしれない。私の周囲には旅好きが多いが——というより旅好きしかいないくらいだが、最近は、仕事や留学ではなく海外を旅した人はほんの数人しかいない。それ以外はみんな国内旅行にとどめている。日本で日本のニュースを見聞きして暮らしていると、まだまだ海外旅行には慎重になってしまう人が多いようにも思う。

日本では多数派でも、世界的には少数派。こういうズレは今までだってあっただろうが、あまり考えたことがなかった。パンデミックや旅行のとらえかただけでなく、そのほかの価値観の変遷においても、今後、さらに意識していかざるを得なくなるのかもしれない。

プロフィール

かくた・みつよ

作家。1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』(文藝春秋)での直木賞をはじめ著書・受賞多数。2月にオレンジページから『ゆうべの食卓』が刊行予定。

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