角田光代さんエッセイ 暮らしのカケラ(7) はじめてという魔法
学生時代に属していたサークルの集まりがあった。何年かに一度は集まっているので、すごく久しぶりというわけではないのだが、会うたびに、みんなが変わらなくて驚く。先輩も後輩もだれもが会ったときのままに見える。しかし、「会ったとき」の年齢を思うと、十八歳から二十二、三歳だ。その年齢に見えるはずがなく、男女ともにしわも白髪も増えているのだが、どうしても「会ったとき」のままなのだ。それと同じことが町にもある、とこのあいだ気づいた。イベントの仕事があってソウルを訪れたときだ。ソウルは、二十三年前、九十年代の半ばと、二〇一五、六年に一度ずつ、計三回訪れていて、今回が四度目だった。なぜか毎回冬。
今回も、かじかむように寒いソウルの町を歩きながら、自分が二十三年前の面影を見ていることに気がついた。二年前や三年前のほうが記憶が鮮明なのに、目の前の光景に重ねてしまうのは、はじめて訪れたソウルなのだ。何屋さんなのかまったくわからないハングル語の看板や、洋服ばかり売る市場の角、音が氾濫している繁華街、眼鏡屋さんの並ぶ地下街。九十年代半ばのソウルは、今よりちょっと野暮ったくて今よりだいぶ愛想がなかった。芯から冷えるような寒さは同じだ。
本当は、二十三年前にどこを歩いて、どこに泊まって、どこでごはんを食べたのか、まったく覚えていない。記憶は偽物かもしれない。でも、その記憶が今の光景にきちんと重なる。
バンコクでもそうだし、ニューヨークでも、ヤンゴンでもそうだ。二十代のときに訪れた場所を、二〇年以上たって再訪しても、はじめて旅したときの光景が重なる。どの町もかつてのようではなく、進化し、発展し、垢抜け、きらびやかだが、その今の光景に、かつての、ちょっと暗かったり古びていたり殺風景だったりした光景が、重なって見える。
私はそれを、たんなる懐かしさ、旅の感傷だと思っていた。その感傷のままに、二十数年前に歩いた路地や店やホテルを再訪することもよくある。アスファルトに落ちる木々の陰、ホテルの塀、見上げた空の感じ、町は変わっても、そうしたものは、変わらないなあと思う。
いや、実際は変わったのだ。老けた友人の顔が会ったときのままであるように、町もまた、はじめて旅したときのままに見えるだけなのだ。
だれでもそうなわけではない、というのも同じ。会ったときの顔が印象に残っていない友人や知人はきちんと老けていくし、再訪しても、何ひとつ思い出せず、本当にここにきたことがあったっけ、と思う町もある。はじめての印象が強いのは、やっぱりその後親しくなったり、好きになったりした、人や町だ。
いつかこの、はじめての魔法がとけて、先輩後輩がおじいさん、おばあさんに見える日がくるのだろうか? 知っているはずの町が、まったく知らない近未来みたいに見える日がくるのだろうか?
プロフィール
かくた・みつよ
作家。1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』(文藝春秋)での直木賞をはじめ著書・受賞多数。最新刊は『源氏物語中』(訳・河出書房新社)。
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