角田光代さんエッセイ 暮らしのカケラ(1) 記憶の感傷ツアー
同じ町に二十五年住んでいる。正確には、そのうち四年ほどは隣町に住んでいたけれど、それでも二十年以上、同じ町内で引っ越しをくり返して今に至る。個人経営の飲食店と、古書店が多く、商店街が充実した町で、私にはたいへん暮らしやすい。
町の規模がちいさいので、どこかにあたらしい店ができるとすぐに話題になる。飲みにいった店や美容院や、町内の知り合いから「どこそこにこんな店ができたけど、いった?」と訊かれる。あたらしい店、とくに飲食店には私も敏感で、散歩していてそういう店を見つけると覚えておいて、ひとりで飲みにいったり、知り合いのだれそれに話題をふったりする。
駅の構内にスーパーマーケットができた。オープン初日はものすごい人で、入場制限されて外にずらりと入場待ちの列ができていた。スーパーマーケットがある光景はまだ目あたらしく、今も店内はずいぶん混んでいるが、数か月先には見慣れて意識もしない背景になるだろう。スーパーができる前は、総菜屋やベーカリーなどの店舗がいくつか入っていた。ワインの種類が豊富なリカーショップが便利だった。さて、ではその前は……、と考えてみても思い出せない。スーパーが見慣れた背景になるころには、リカーショップのことも総菜屋のことも忘れてしまうのだろう。けれどももっとずっと前の景色となると、不思議とはっきり覚えている。私がこの町に引っ越してきたとき、駅の構内にはぽつんと立ち食い蕎麦屋だけがあった。その光景はなぜか忘れない。
ときどき私はそんなふうに、あえて、今はもうない店を思い出すことで復元する。思い出せないことも多いのだが、不思議なくらいはっきりと思い出せる店や通りがある。
今は居酒屋になっているある一角は、一年ごとに店が変わっていて、その変遷すらも覚えていたりする。
今はもうない、ということは、この先永遠にないということだ。そのせいで、思い出す店や通りには感傷がついてまわる。そして、同じ時間の流れでこの町と私は生きているのだなと思うのである。
プロフィール
かくた・みつよ
作家。1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』(文藝春秋)での直木賞をはじめ著書・受賞多数。最新刊は『なんでわざわざ中年体育』(文藝春秋)。
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