街に、ルネッサンス UR都市機構

角田光代さんエッセイ 暮らしのカケラ(13) 「声の消えた町」

URPRESS 2020 vol.62 UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]


photo・T.Tetsuya

二〇二〇年の春のことを、この先だれもが覚えているだろう。新型ウイルスのニュースは、一月の終わりごろから見聞きしていたけれど、遠いどこかのできごとという感覚しか、私は持っていなかった。けれどもあれよあれよという間に身近なものになり、私の暮らす東京は、感染拡大防止のために、四月七日に緊急事態宣言が出され、自粛が要請された。

ひとりで書き仕事をしている私には、リモート業務や時差通勤は無関係なのだが、それでも、数カ月先まで予定されていたイベント、イベントのための出張、講座、取材、すべて中止となり、連載をしているいくつかの雑誌は休刊となった。友だちとの約束も、すべて中止だ。とりあえず、ずっと先までなんの予定もない。

友人が主催する花見の宴に、毎年呼んでもらっているのだが、今年はもちろん取りやめ。私の家の近所には、桜の名所となる公園が三つあるのだが、桜が満開になるまえに、ベンチや広場は黄色いテープで囲われて、立ち入り禁止となった。いつも花見客でごった返している公園は、マスクをしてランニングをする人ばかり。

花が散り、あっという間に新緑の光景が広がる。早朝、ランニングをしながらあふれかえる緑の木々を見上げて、何もこんな季節を選ばなくとも……、と未知のウイルスについ言いたくなった。四月、五月はもっともうつくしい季節で、私は一年のなかでこの時期がいちばん好きだ。出歩くのにも最適な気候だ。なのに、ランニングや散歩や、買いものにいくついでのようにしか、その光景を眺めることができないのだ。見る人がいなくても、花も木々も、なんら変わりなくうつくしい姿を見せ続けている。

五月に入って、なんだか時間の流れが止まったような錯覚をときおり抱いた。出かけていないせいか、人に会っていないせいか、などと思っていたが、それよりもっと大きな原因として、子どもの声が聞こえないからだ、と気づいた。私の住まいは通学路の途中にあり、近所に保育園もある。ふだん意識して聞いていたわけではなかったので、最初は気づかなかった。気づいてみれば、子どもたちが歌う声も、話す声も、笑う声も、聞こえない。この異様な静けさが、時間を止めているように思えるのだった。

六月に入って、ランドセルを背負ったちいさな子が歩いているのを見かけて、あっ、と声を出しそうになった。そのくらい、久しぶりに見る光景だった。

分散登校だからか、以前のようなにぎやかな声は聞こえてこないし、保育園から歌声もまだ届かない。それでも登下校する子どもたちの姿は、止まっていた時間を、ゆっくり動かしはじめてくれているように感じる。

プロフィール

かくた・みつよ

作家。1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』(文藝春秋)での直木賞をはじめ著書・受賞多数。最新刊は『源氏物語 下』(河出書房新社)。

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