街に、ルネッサンス UR都市機構

【特集】東日本大震災から10年 トップインタビュー

URPRESS 2021 vol.65 UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]

SDGsアイコン画像

10年を振り返っての思い、これから目指すことについて
4市町のリーダーにうかがいました。

都会から足を運びたくなる
人が輝くまちに

宮城県気仙沼市 菅原茂市長

多くの入江があり、もともと平地が少ない気仙沼市。その平地が津波で被災し地盤も沈下したため、仮設住宅の建設地の確保には大変苦労しました。住宅の建設地にも苦慮するなかで採用されたのが、津波から守ることができる土地を造成するという土地区画整理事業です。とはいえ損傷したライフラインを整備し直し、雨水排水などの勾配もとりながら、通行を止めずに道路を切り替え、その上、公営住宅も建設していくというのは非常に複雑で困難な事業。市の力だけでは到底難しく、URさんなど専門の方々のおかげで進めることができました。

復興が遅れれば人口流出が進みます。住宅に関しては、高齢になってからの暮らしやすさも考え、もともと商業地でにぎわいがあった利便性が確保できる地域に、高層の災害公営住宅を優先的に建設。また道幅が広く、先が見渡せるカーブの少ない幹線道路を整備することで、まちの中心部の移動時間の短縮も実現しました。ハード面では理想とするまちのかたちになり、大きく前進できたと思っています。

菅原茂市長の画像

仙台から車で2時間
アクセス至便に

震災から10年、私たちが進めてきたのは、市民が主役のまちづくりです。「人からはじまる地方創生」を掲げ、その基礎となる「産業人材(経営者)」と「まちづくり人材」の育成に特に力を入れてきました。震災後、市外からたくさんの講師・メンター陣が来て鍛えてくださり、その後も学びを継続するなかで人材が活性化してきました。

私たちは今回の復興を、「もとに戻す」のではなく、社会課題を同時に解決する機会と考えてきましたが、振り返って議論が少なかったと思うのは、「この地域における本当に必要な創造的復興」と「人口減少時代における豊かさ」についてです。さまざまなトライをしていますが、我々の日々の悩みであり、継続的なテーマ。これは日本全体で必要な議論だと思っています。

3月に開通した三陸沿岸道路を利用すれば、仙台から気仙沼まで2時間弱。100万人以上を擁する仙台圏をマーケットととらえれば、私たちにとっては大変なビジネスチャンスです。また、新型コロナの影響でテレワークや副業が進み、郊外へ人がシフトし出したといわれています。気仙沼と仙台との2カ所居住は現実的だと思いますし、都会の人のノウハウを副業やボランティアで少し地方に分けていただくといったことも進むかもしれません。

私が若い頃は、“陸の孤島”といわれた気仙沼ですが、今や都会の人の日常的アクセス圏になったと感じています。

災害公営住宅や商業施設が建つ南気仙沼地区。
高層の集合住宅は災害時の一時避難場所になる。
気仙沼市観光キャラクター
「海の子 ホヤぼーや」

【妹尾和子=文、菅野健児=撮影】

頂の見えない登山に挑むような再建。
あっという間の10年でした

宮城県南三陸町 佐藤仁町長

防災対策庁舎で被災し、津波と風雪に耐えながら生き抜きました。翌朝、壊滅したまちを見て途方に暮れましたが、再建するために自分たちは生き残ったという使命感で今日までやってきました。二度と津波で命を失わないまちにと職住分離の高台移転を決めたものの、圧倒的な職員不足。まちづくりという大事業を進めるにあたり、URさんに協力をお願いしました。

振り返れば、あっという間の10年。専門の方々からは「10年でまちをここまでつくりあげるのは、相当なスピードだ」と言われますが、復興に10年かかると言われた当初は、長すぎる、もっと早くできないのかと思いました。町民に「10年待ってください」と伝えるのはつらかった。頂の見えない登山に挑戦するようなものでした。

事情を知らない人は、高台を造成してすぐに住宅の建設をと思うのでしょうが、全国に散らばる相続権をもつ人への確認を含め高台の土地の取得には大変苦労しましたし、埋蔵文化財が出てきたり、想定より岩盤がかたかったり、早く進めたくてもできませんでした。「まだここまでしか進んでいないの?」と言われるたびに傷つきましたが、「うーん、頑張っているんだあ」と言いながら進めてきました。

そんなとき、URさんは現場見学会で子どもたちに重機を見せたり、見晴らし台をつくって造成の状況が見えるようにしたり。請け負った仕事をするだけでなく、町民の気持ちを考えて動き、待っている人たちの気持ちをつないでくれました。私は竣工式などでよく泣くんですが、私の涙を一番見たのはURの方々です。一緒に苦労してきた戦友みたいな存在です。

佐藤仁町長の画像

完成したステージで
町民がいかに躍動するか

造成した高台に移転した方々からは、「こんな安心なところに住まわせてもらってありがたい」という喜びの声が届いています。一昨年の台風19号でも高台は被害がありませんでした。10メートルかさ上げした志津川沿岸部を含め、まちのインフラが整備されて舞台ができあがった今、重要なのは、このステージで町民がどう躍動するかです。

全国の知り合いから商品を集め、東日本大震災の翌月から「南三陸福興市」を開催した商業の人たち。林業のFSC、漁業のASCといった国際認証取得も震災を経て実現しました。まちをどうするのか、次の世代に何を残してバトンタッチするのか、各々が考えて行動したからです。持続可能なまちづくりは町民が主体。今後は、環境と防災を学べるまちとして交流人口を増やすことに力を注ぎたいと思います。

公共施設や住宅が整備された南三陸町の志津川地区。
南三陸を明るく元気にするキャラクター
「オクトパス君」

【妹尾和子=文、菅野健児=撮影】

生まれ変わった「女川町」が誕生。
ここから第二のスタートです

宮城県女川町 須田善明町長

10年たった今、町の基盤整備と住宅整備はほぼ終わり、女川町はコンパクトで新しいまちに生まれ変わりました。女川駅周辺に役所や病院などを集約させ、駅から海に向かう一帯は商業・観光エリアとし、高台に新たな住宅地を造成、新しい暮らしが始まっています。

震災前と比較すると人口は三分の二弱です。事業を廃業した方、住宅再建を待てずに転居した方も多くいます。一方、震災前とは異なる新たなにぎわいが生まれたのも事実です。特に女川の民間では、還暦以上の者は口出ししないという方針を決め、若者が前面に出て引っ張ってきました。これからのまちの中核となるのは自分たちだと、まちの将来に自分ごととして向き合い、「女川町復幸祭」の開催、商業施設「シーパルピア女川」「ハマテラス」の開業など、町内だけでなく町外の力も引き込んで復興を進めてきました。ここまでよい意味での化学反応が起きるとは思いませんでした。

もともと女川は港町で、よそから来るものを受け入れやすい土地柄です。震災をきっかけに、新たなものを生み出す土壌がさらに深まり、より強くなったと感じています。

須田善明町長の画像

イメージ以上のまちが完成
プレーヤーを増やせ

女川は町の規模に比べて被害が大きく、URさんと町全体の復興を包括的にサポートしていただくパートナーシップ協定を結びました。復興は時間との闘いでしたので、CM(コンストラクション・マネジメント)方式を採用。町が方向性を決め、URさんがそれを動かすエンジンとなり、設計・施工に関するマネジメントまで行いつつ工事を進めました。URさんは国や県など行政機関との交渉に長けており、そのおかげでスムーズに進められたことも多々あります。蓄積されたノウハウを活用し、ゼロからのまちづくりを予定通り完成させることができました。

復興したまちは、イメージ以上の出来です。6年前に女川駅と駅前広場が完成してその場に立ったとき、イメージパースよりリアルな空間・実物のほうに圧倒的なクオリティを感じました。これは初めての経験でしたね。

新しい暮らしは始まったばかりです。町内のスーパーが昨年再建されましたが、まだまだ日常の買い物には不便な面もあると思います。町の中心部を巡回するバスを走らせるなど、交通弱者への配慮も考えていきます。

そして、1人でも多くの人にまちづくりのプレーヤーになってもらうための、プラットフォームづくりを進めます。皆さんの力で、新しい女川町を育てていきましょう。

女川駅から海に向かって続く「シーパルピア女川」と「ハマテラス」。
女川町PRキャラクター
「シーパルちゃん」

【武田ちよこ=文、菅野健児=撮影】

誰もが失敗を恐れず
挑戦できるまちに

岩手県陸前高田市 戸羽太市長

東日本大震災が起き、「これが絶望というんだ」という状況のなか、こてんぱんにやられたこのまちに本当にまた人が住めるのかと思いながらの復興まちづくりのスタートでした。

この震災で陸前高田市では人口の約7%が犠牲になりました。歴史を振り返れば三陸地方は何度も津波の被害を受けていますから、こんなにつらい思いはこれで最後にしたい。明日のことではなく、50年後、100年後の未来を見据えてのまちづくりに取り組んできました。まちのなかに、もうひとつ防潮堤をつくったような、10メートルに及ぶ市街地のかさ上げもそのひとつです。URさんから工事を一括発注できる「CM方式」を提案いただき、発注をプロに任せられたのは、職員がたくさん犠牲になり最悪の状態のなかでの非常に大きな光でした。

今泉地区は低地が津波で全壊しましたが、地元の方は生まれ育った土地に住み続けることを望まれました。その思いを尊重し、裏山を造成して高台に移転することとし、また、造成で出た土を高田地区の低地部にベルトコンベヤーで運んでかさ上げに使うという我々ではありえない発想でURさんには工事を進めていただきました。その結果、土の運搬にかかる年数が大幅に短縮されたことはもちろん、ベルトコンベヤーの動きに市民が励まされ、また国内外で話題になって陸前高田というまちを知ってもらうきっかけにもなりました。

戸羽太市長の画像

誰もが気兼ねなく暮らせる
共生社会に

今、道路も建物も新しくなって、理想的なまちになりました。使えなかったはずの土地が、かさ上げでよみがえったのです。課題はありますが、市民が安心して生活できる場が整いました。

我々は震災で社会的弱者になり、水も食料も分けていただくという苦しい状況が続きました。お世話になった全国の方々への恩返しを含め、今後は私たちの経験、反省をきちんとお伝えし、このまちを、防災・減災を学んでいただくフィールドに、そして障がいがある人も高齢者も気兼ねなく生活できる共生社会にしていきたいと考えています。陸前高田のまちは一度なくなっていますから、失敗を恐れず誰もがチャレンジできるまちでもあります。

かさ上げ地には著名な建築家の建物がたくさんありますので、建築を中心とした観光も可能です。また、日本の土木技術も含めて、こんなに大規模なまちづくりができることを見ていただける場でもあります。URさんをはじめ建設企業の方々、国内外の皆さんから励ましを受け、ここまでこられたことに心より感謝申し上げます。

商業施設や公共施設が集まる高田地区。
BRT陸前高田駅の近くには市立博物館を再建中で、今年、ホテルも着工予定だ。
陸前高田市ゆめ大使
「たかたのゆめちゃん」
©Aid TAKATA

【妹尾和子=文、青木 登=撮影】


【特集】宮城県気仙沼市

震災を経て輝きを増すわくわく、きらきらのまち

【特集】宮城県南三陸町

子どもたちが誇りをもてる魅力あふれるふるさとに

【特集】宮城県女川町

官民連携でつくる新しいまち「女川」が誕生

【特集】岩手県陸前高田市

新たな挑戦に期待が膨らむ生まれ変わったまち

【特集】東日本大震災から10年 トップインタビュー

東日本大震災から10年 トップインタビューの写真

【特集】URが取り組む東日本大震災の復興支援

URが取り組む東日本大震災の復興支援の写真
  • LINEで送る(別ウィンドウで開きます)

特集バックナンバー

UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]

UR都市機構の情報誌[ユーアールプレス]の定期購読は無料です。
冊子は、URの営業センター、賃貸ショップ、本社、支社の窓口などで配布しています。

CONTENTS

メニューを閉じる

メニューを閉じる

ページの先頭へ