【URのまちづくり最前線】URのまちづくり最前線 第11回
安満(あま)遺跡公園 防災公園街区整備事業 大阪府高槻市
遺跡の上に広がる緑のはらっぱ市民待望の公園が誕生する
弥生時代の遺跡が眠る高槻市の中心地。 長く大学の農場として使われていた広大な土地が 防災公園として生まれ変わり、市民に喜ばれている。
約2500年前の弥生時代に開かれた環濠(かんごう)集落跡を含む遺跡が、大阪府高槻市にある安満遺跡だ。広さは約72ヘクタール。濠をめぐらした居住地と水田、墓域が一緒に見つかっていることが大変貴重で、数多くの土器や石器、木簡なども発掘され、国の史跡に指定されている。
だが、この安満遺跡はこれまで、広く知られてはいなかった。この遺跡の上には約90年にわたり、京都大学の農場があったからだ。
農場の広さは約16ヘクタール。JRと阪急電鉄に挟まれた区域一帯に広がっていた。しかし、大学側ではこれ以上の拡張ができないこと、研究の高度化への対応が困難などの理由から、農場の移転を考えていた。それが10年ほど前のことだ。
ちょうどその頃、URでは関西文化学術研究都市(学研都市)の開発を進めており、その一角の京都府木津川市が農場の移転先として浮上。高槻市、京都大学とURの三者で移転と跡地活用の協定が結ばれた。高槻市は農場が移転した跡地を、遺跡を活かした公園にすることを決め、URは高槻市からの要請を受け、農場跡地のうち約8ヘクタールを防災公園として整備することになった。
一方で、農場の移転を支援。
「農場がまるごと移転する、かつてない引っ越しです。研究を途切れさせず、スムーズに移転していただくために、URは引っ越し先の新農場予定地において、オーダーメイドでインフラ整備を進め、社内でも綿密に連携を取りながら移転をお手伝いしていきました」
現在、安満遺跡公園を担当するURの服部泰之は、当時をこう振り返る。
農場の移転は数年に分けて行われ、2016(平成28)年から学研都市の新農場で教育・研究が始まっている。
遺跡を守り
防災公園として機能
市とURは防災公園の整備を進めていったが、この土地ならではの苦労があったという。
「広大な土地の中で、遺跡がどのように広がっているかわからないなか、整備を進めていかざるを得ませんでした。もし重要な遺跡が見つかれば、そこは史跡指定、保存の観点から、防災公園の開発に制約がかかります。その難しさがありました」と服部が言う。
実際に、雨水貯留施設を造る工事中、土の下から弥生時代の大規模な水田跡が発掘され、位置を変更するなど大きな計画変更があったという。
今年3月23日に一部が、そして21年に全面開園する「安満遺跡公園」は、多くの市民に「公園で何がしたいか」を聞き、みんながしたいことをかなえる公園、みんなで育て続ける公園にしようというコンセプトのもと、議論を交わしながら整備方針を定めていった。
「あまりつくり込まない、ハーフメイドの公園を目指しています」と話すのは、高槻市安満遺跡公園整備室の藤井敏温副主幹。それは時代やニーズに合わせて変化し、市民とともに成長する公園だ。
17年には市民メンバーで組織された「安満人(あまんど)倶楽部」が誕生。歴史・防災・自然・プレーパークなどいくつものテーマに分かれて、実際に公園でやってみたいことを実行する活動も始まっている。
3月にオープンした公園の拠点となるパークセンターエリアには、市民活動の拠点となり、人々が交流する「パークセンター」が完成。ここには多目的スタジオや工作・調理室なども設置され、ボーネルンドが運営する全天候型の子どもの遊び施設もあり、家族連れでにぎわっている。
公園の一番の特徴は、緑のオープンスペースがたくさんあること。これは防災上も重要なポイントだ。加えて3日間避難者が滞在できるだけの飲料水をまかなえる耐震性貯水槽や、公園入口にはソーラー照明を設置。今後、マンホールトイレや臨時ヘリポートを備える予定だ。
また、これまで目にふれることがなかった遺跡についても、公園の中に環濠を再現し、安満遺跡の歴史を体感できるVRや出土品の展示施設をつくり、訪れる人に広く知ってもらう工夫をする。
「市民の皆さんからの期待をひしひしと感じています」と藤井さん。
高槻市、京都大学、UR、それに高槻市民の皆さんとの間にウィン・ウィンの関係が生まれた今回の事業。この地に暮らした弥生人たちも、きっと喜んでいるに違いない。
武田ちよこ=文、菅野健児=撮影
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