復興の「今」を見に来て! 第16回 Part2 宮城県女川町
復興を支えた人への感謝の記念碑が建立
平日午後2時過ぎのJR石巻線の終点、女川駅。2両編成の列車が駅に滑り込むと、リュックサックを背負った学生や買い物帰りの女性などが次々とホームに降り立つ。ウミネコをイメージした駅舎の先に見えるのは、真っ青な女川湾。駅前広場では、観光客のグループが足湯につかりながら楽しげに会話を交わす——取材で訪ねた女川には、ゆったりとした時間が流れていた。
東日本大震災から8年余り。大きな被害を受けた宮城県女川町は、一番高いところで約18mも盛土をして、新たなまちに蘇った。今年3月には、中心市街地222ヘクタール、離半島部14地区55ヘクタール余りの基盤工事が概成。それを祝い、工事に携わった延べ150万人への感謝の言葉が刻まれた震災復興事業記念碑が女川駅ロータリーに建立された。
震災以来、復興の陣頭指揮を執ってきた須田善明町長が語る。
「この方向で必ず道が拓ける、と確信できたのは、2015年3月に完成した女川駅と駅前広場の現地に自分の足で立った時でした。ここまで来ることができたのは、住民の皆さんの協力、そしてURとJV(建設を請け負う共同企業体)、町が三者一体であったからこそ。この記念碑の文章は、日々造成現場で力を尽くしてくれた皆さんへの感謝と共に、そのような人々の存在があって初めて私たちが暮らす新たな大地が築き上げられたんだ、ということを後世へ伝えるものなのです」
現場で培った経験を災害復興に活かす
女川町の復興に向けて、女川町とURは2012年に復興まちづくり推進パートナーシップ協定を締結。URは事業計画の作成から区画整理、災害公営住宅の整備など、包括的・総合的にまちづくりをサポートしてきた。安全なまちをつくるために山を切り崩し、盛土に使った土の量は、10トンダンプトラック140万台分に及ぶ。UR女川復興支援事務所副所長の渡邉征爾は、赴任して4年目。ニュータウン建設で大量の土を動かす経験を積んできたが、女川ならではの難しさがあったという。
「大規模で広範囲の現場を一気に進めていくのに苦心しました」
盛土で難しいのは、切り崩した土を埋めると土の体積が変化すること。そのための細かいノウハウなどは、長く現場で培ってきたからこそ身に付いた財産、と渡邉は語る。「自分が得た経験を、未来に向けて20代の若手職員に引き継ぐのも我々の使命だと感じています。新しいまちづくりは、今後何十年も残っていく仕事。それに携われることにやりがいを感じますし、町の皆さんに頼りにしていただけるのもありがたいですね」
まちへの気持ちが復興の原動力
「新たな芽がいろいろ育つ、土の良い畑のようなまちにしたい」という須田町長。その思いを体現しているのが、女川在住の20~40代の若者だ。震災後の女川を盛り上げた復幸祭の実行委員長を3年間勤めた髙橋敏浩さんに話を聞いた。
「正直、震災直後はまちのことを考える余裕はありませんでした。でも、先輩方に声をかけてもらって復幸祭などにかかわるうちに、まちと一緒に自分も変わっていったんですね。今は、ものすごい大きな横のつながりができて、何かあるとすぐに相談できる。震災前には考えられないことです。大変なこと、辛いことがあったけど、悪いことだけではなかったと捉えられるようになりました」
本年度中には、震災遺構の被災交番を遺した公園の整備が終わる。女川町の復興事業は、いよいよ終盤を迎える。須田町長は8年を振り返る。
「自身の原動力となったのは、あの当時の子どもたちが大人になったときに『女川出身です』と胸を張って言えるように、という思いです。そのためには、私たち大人がちゃんと背中で見せていかなければならない。『瓦礫だらけになった町の中で、女川の大人たちは涙を流しながらも笑顔を作って立ち上がり、前を向いてこのまちを創ってきた。そんな女川という町の出身なんです』と彼らが誇りをもって言ってくれるように」
我がまちを愛する、熱くポジティブな思い。トップランナーとして復興へひた走る力の源は、そこにあるのかもしれない。
【阿部民子=文、菅野健児=撮影】
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