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きくみみ Archi+Aid 福屋粧子氏編 浜からはじめる復興計画(本編)

きくみみ Archi+Aid 福屋粧子氏編 宮城県牡鹿半島 浜からはじめる復興計画

鮎川浜 高台の役場から、なくなったまちを見下ろす

「私ちょっと、おかあさんを仮設に送ってくるんで、先に行っててもらえますか」
URの取材メンバーに、牡鹿(ろうあ者か)半島の鮎川浜を案内してくれていた福屋粧子さんは、そう言って、車を回してきた。
震災から一年。津波の跡は、がれきもほぼ片づけられ、道路と電柱ばかりが目立っている。仮設商店街から、向こうの高台にできた仮設住宅まで、歩いて帰る途中の高齢者を見かけ、送りましょうと福屋さんが声をかけたところだ。

福屋さんは、アーキエイドという建築家グループの一員として、東日本大震災後、宮城県牡鹿半島の復興支援に携わっている。建築家として、東北工業大学講師として、アーキエイド事務局長(平成23年9月11日-平成24年3月10日)として、切れ味鋭い洞察で取り仕切る多忙な毎日を送る。その建築のプロフェッショナルが、浜の年配者に会うたび立ち止まり、「おかあさん、帰るところですか。」「おとうさん、今年の牡蠣はどうですか。」と、ニコニコ、ハキハキ話しかけ、浜の人達の言葉に熱心に耳を傾けている。

この一年、アーキエイドのメンバーは、牡鹿半島30の浜(=集落)に復興支援に入り、丹念に調査し、地元の声を拾い上げてきた。
人々の生活を紐解いて計画を提案する、建築家の持ち味を生かしたまちづくり。その技と心から学び、これからのまちづくりに生かせないかと、URの東日本都市再生本部の職員が、現地取材に出向いた。

小渕浜 一箇所に集められたがれき

福屋粧子(ふくや しょうこ)

建築家。妹島和世+西沢立衛/SANAAを経て、平成17年福屋粧子建築設計事務所設立。平成22年より東北工業大学工学部建築学科講師。『梅田阪急ビルスカイロビー tomarigi』、越後妻有アートトリエンナーレ2009インスタレーション『森のひとかけら』など環境に開かれた空間を設計してきた。震災後は、朝日新聞「ニッポン前へ委員会」委員、『東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク [ アーキエイド ]※』発起人、また平成23年9月より平成24年3月まで同初代事務局長として被災地域と遠隔地サポーターを繋ぐ活動、また宮城県石巻市牡鹿半島などで復興まちづくり支援活動を行っている。

浜の哲学。津波は自然のものは何一つ壊していない。

アーキエイドが支援する牡鹿(おしか)半島は、仙台から車で約2時間半。半島内は道が入り組んでアップダウンも激しく、意外に移動時間がかかる。リアス式海岸特有の多数の入り江、それぞれを核とした漁村集落(浜と呼ぶ)から成っており、人口は各浜約20~1400人という規模だ。牡鹿地区は平成17年に石巻市と合併したが、石巻市街地とは地形も暮らしぶりもだいぶ異なる。
震災では、ほとんどの浜が津波による被害を受けた。地盤沈下は平均1.2m、船着き場を嵩上げしないと荷揚げすることができない。漁を中断している浜はひっそりしているが、復興の槌音響く元気な浜もある。

福屋さんは、浜の復興について考え始めたきっかけをこんなふうに話してくれた。
「震災後の視察で、ある時、とある海岸を訪れました。ここにも津波が来たはずだけれど、よくわからない。そこにいたおじいさんに尋ねました。『ここも津波が来たんですか』
するとおじいさんは、『来た』と事もなげに答えるんです。『津波は、人の造ったものは壊したが、自然の造ったものは何一つ壊していない』と。」
ものを造ることの意味、建築家として何ができるのか、を考えさせられたという。

小網倉浜
浜辺はひっそりしている
小渕浜
一部嵩上げした船着き場(写真右手
前側)を、皆こぞって使っている

アーキエイドの始まり

アーキエイドと牡鹿半島支援の始まりを福屋さんに聞いた。 「震災後の安否確認が発端です。」 震災後、付き合いのある建築家同士が、続々と、SNS等を通じ安否確認の連絡を取り始めた。それが、それまで潜在的にあった、建築家同士のネットワークの存在を浮かび上がらせることとなったようだ。その中で、被災地支援について、『建築家として何ができるか』という白熱した議論が起こり始めたという。それがアーキエイドという建築家ネットワークの発足につながった。 「建築家の支援活動のツテは、実は結構、個人的な交友関係に基づくものが多いんです。親戚が住んでいるとか、親しい友人が活動しているとか。そうやって各々独自に支援活動を行うとき、もっと情報共有した方が、バッティングの回避や、フィードバックや、ノウハウ蓄積等、役立つと思いました。そのためのプラットフォーム、それがアーキエイドの役割です。活動自体は、基本的に、誰でもでき、現地のニーズに合えば何でも、ありです。」

アーキエイドの役割

200ページの調査資料

アーキエイドの活動のひとつが、看板プロジェクトともいうべき牡鹿半島復興支援である。東北大学が、石巻市との包括連携協定を結び、市街地だけでも人手不足で、牡鹿半島では基礎調査すら手がまわらないという声を受けたことで始まった。
「それまでは、じっと待っていました。阪神大震災の例から、支援に入るには適した時期があることが予測されていました。被災地の方が支援を受け入れられる状態になり、必要とされるまで待つ、という姿勢でした。」
満を持して平成23年7月、アーキエイドの建築家達は牡鹿半島に入ることとなった。学生が実地で学ぶ意義と、30ある浜を浜単位で調査するための人海戦術とを結び付け、大学の建築系研究室に声をかけたところ、全国の大学から15チームのボランティアが集まった。建築家と学生が、1チームにつき1~4浜を受け持ち、4泊5日の合宿で浜の調査に入った。

平成23年8月 浜の調査 模型を使った意見交換の様子

「大勢の学生を率いての調査ですから、マニュアル作成に腐心しました。」
守秘義務のための情報管理、行政に負担をかけないよう窓口を一本化するなど、事務局のバックアップ体制も気を配った。
提出資料フォーマットも指定し、各浜5種類のシート、(1)インタビューシート(2)地域診断カルテ(3)施設配置提案(4)アクティビティ提案(5)地域活性化提案、を作成することとした。
「合宿後、学生には頑張ってもらって2週間ほどで本提出としました。何がすごいかというと、これが30浜分集まると約200ページになるわけです。2週間で200ページの調査資料という成果です。」
石巻市の信頼を得て、結果として、市の復興計画素案の牡鹿半島部分は、この調査資料をもとに作られたという。

浜のくらしを記録する。

アーキエイドの調査の特徴のひとつは、浜ごとのなりわいを記録した点だ。 こと漁村では、仕事がなくなれば浜に住む理由がないと言ってもいい。なりわいと居住は密接で切り離せない。各浜のなりわいを含んだ生活全体を、丹念にヒアリングし記録した。 「浜の暮らしを記録した、そのこと自体も意味があると思っています。」 と福屋さんは言う。震災がなければ調査対象として注目されなかったかもしれない漁村の暮らし。津波と復興によって、図らずも消えてしまう文化や習慣もあるかもしれない。そんな漁村の暮らしというものを、生き生きと記した。これもアーキエイドの調査の収穫といえる。

筑波大学貝島研究室が中心となってまとめた、 復興計画のためのデザインパタンブック 「浜のくらしから浜の未来を考える」より。

「浜ごとに特色が違います。牡蠣養殖が盛んなところもあれば、ホヤ養殖もあります。鮎川浜は全国屈指の捕鯨基地ですが、半島最大の浜ですから、役場や学校などの勤め人も多いです。半島の付け根の方の浜では、石巻まで通っているサラリーマンもいます。
私の担当している小渕(こぶち)浜は、日本有数のアナゴ漁の地です。震災後の今はまずワカメを出荷しようと作業しています。私もこの間、ワカメ解体作業を体験してきました。ワカメは余すところなく使われるエコな食材だって知ってました?」
なりわいが違えば、作業空間も生活スタイルも違う。復興計画上の条件も違ってくるだろう。

鮎川浜は観光の街でもあった。 仮設店舗で地元名産品の提供を続けている

津波の被害も浜によって様々だ。浜ごとの個別性は高い。
「津波の被害が少なかったところには何か秘密があると思うんですよね。歴史を超えて残ってきた場所にはそれなりの理由があるはずだと思っています。」
住民ヒアリングとは要望を聞くことだけではない。固有の暮らしぶりを紐解き、ときには歴史や自然を紐解いて、そこから見えてくるものがある。

狐崎浜。
牡蠣剥き小屋が全壊したため、屋外で牡蠣剥き作業をしている。
肉厚でミルキィな生牡蠣をUR取材メンバーも試食させてもらった。

みんな顔わかってるから

行政をパートナーとして仕事をすることの多いURとしては、行政との関係についても気になるところだ。
「牡鹿半島では総合支所の木村さんがキーパーソンです。」
と福屋さんにご紹介いただき、石巻市牡鹿総合支所(合併前は町役場)の木村副参事(平成24年3月現在)にお話を伺った。

木村さんは、震災後、物資分配→がれき処理→復興計画、と時期に応じて自ら引き受けて担当していったという。
「誰もやったことないし、誰かがやらなきゃならないから。」
そんな木村さんだから、行政手続きには機敏に動くし、柔軟な視点で建築家にも忌憚なく意見する。現在は、防災集団移転促進事業と災害公営住宅の計画に心を砕いている。

印象的だったのは、合意形成のスピードである。牡鹿総合支所の管轄で予定する12の防災集団移転促進事業のうち、既に10件が認可済または申請中で、石巻市の中でも先陣を切っている。(平成24年3月8日現在)
浜と浜との間に峠などの隔たりがあるおかげで、境界が明確で、集落ごとに区長さん中心にまとまりよい様子が、木村さんの話からもうかがえた。(ただし、独立しすぎて浜同士の連携が生まれにくいという難点はある模様。)
「みんな顔わかってるからね。
半島の外へ仮住まいしてしまっている人もいるけど、その人たちの住所は一人ひとり追いました。高台移転(防災集団移転事業)のアンケート送って、だいたい返ってくるのが50%かな。回収できなかった分は一人ひとり電話して。」
高台の移転先候補地の所有者の了承も、2週間くらいでとったという。

木村副参事(写真奥)の話を聞くUR職員と福屋氏

住民の「早く高台に。」 将来への懸念。

阪神大震災以来、世の中の意識が変わった点がいくつかある。ヨソからの支援者がただハコを造ることを良しとする人はもはや少ないだろう。
アーキエイドの、丹念なヒアリングをもとにした提案は、住民と専門家が一緒になってまち全体をオーダーメイドするような、新たな流れを示している。

「でも、チームがひとつの浜の支援にずっと入っていると、それぞれが単独の浜の便利さのみを追求した『浜の代弁者』になってしまう恐れがあるんですよ。それじゃ意味ないので、そうならないように、横の連携をとるようにしています。月に1回は「半島支援勉強会」で最新の情報を共有し、密に内部ミーティングをし、半島全体の将来を考えるようにしています。」
と、福屋さんは半島全体の連携を強調する。
「たとえば、浜の将来を考えると、ツーリズムは大切な要素だと考えていますが、仙台から2時間半のところへ人を呼んでくる、これは、半島全体の連携なくしてはできません。」

また、福屋さんが懸念するのは、復興計画が防災視点だけに偏ってしまうのではないかということである。
「今は、住民に住む場所の意向を聞くと、『とにかく早く高台に』という思いが強いです。ほかは『浜に近い』『日当たり』『風が当たらない』くらいに絞られます。でも、本当に求められることは、それが全てでしょうか。たとえば、今でこそ『高台に』との思いばかり強いけれど、それが将来、平時の生活の中では変わっていくかもしれません。」
できるだけ、平時の生活や、浜の将来のことを考えた計画になるよう、専門家として提案したいと言う。

住民との意見交換で使った模型。
住民がしっかりしたイメージを持って考えられ、
有意義な議論が促されるという。

小渕(こぶち)浜の例では、福屋チームは、高台移転先について、単純に山を平たく造成するのではなく、地形を利用しようと考えた。高所に一つのまとまった平場をつくるより、県道の両側にいくつかのまとまりを配すという提案だ。津波の範囲を避けつつ、県道に接する土地まで計画高を下げ、また仮設住宅地の跡地利用も含めて、配置を工夫し、県道を介して利便性やコミュニティが持続するようにと気を配った。

「ちょっと心配なんですよ。高いところへ、まとまって空いている、公有地だから土地が得やすい、というだけで移転先を決めていくと、ことによると、浜の生活を大きく変えて悪い方向へ働くかもしれない——例えば、過疎化とか孤立化とか——。そうならないように提案したいですね。」

テープで囲まれた場所が移転候補地。
県道を介して近くにまとまることを考えた。

建築家の特長は、スケールレンジが広いこと。

「当初、『建築家として何ができるか』を考えたとき、私たちはこんなふうに考えました。建築家の職能とは。地形を読むこと。話を聞くこと。ものを作りながら考えること。」
と福屋さん。アーキエイドの牡鹿半島での取組みは、まさにそれらをフル活用している。
「もう一つ、建築家の特長は、スケールレンジが広いことです。」
建物のおさまりから、地形や建物配置まで、虫の目と鳥の目を行き来して思考するというわけだ。
人の生活から必要なものを固有解としてデザインしつつ、まち全体の関係へ広げていく、建築家の視点は、特殊性の高い土地柄では特に価値を発揮する。
一方で、全体計画から個々のレベルへと縮めていく、いわば、都市計画・土木的視点もなおかつ必要となる。

たとえば牡鹿半島のお隣りの女川(おながわ)町では、市街地で200ha超の区画整理を構想中だ。女川市街地は津波による大きな被害を受け、港も駅も流され、もと町が広がっていたところに、今は荒涼とした更地が広がっている。千年に一度の規模の大津波による、千年に一度の規模のまちの計画、と言われる広範囲の復興。URもパートナーシップ協定を結び復興支援をしているところだが、今後、官、民、その他の多くの立場や、土木、建築などの多くの分野の総力が必要だ。
「土木と建築、両方の視点がうまく協働していけるといいですよね。」
とは、福屋さんとURのメンバーで話をする中で何度か出てきた話だ。

女川町も漁港中心の町である。 左から2人目がURの女川復興支援担当。
200ha超の区画整理について 女川復興支援担当者から報告
東京にてURの復興支援女川担当と福屋さんの合同報告会。

URに期待しています。

福屋さんからURに期待することについてコメントをもらった。
「URに期待することの一つは、URの官と民をつなぐ役割です。今、各行政において専門家や時間が圧倒的に不足している中で、経験や専門家ネットワークを持つURの支援は非常に期待されていると思います。
もう一つは、ぜひ若い人の育成をお願いしたいということです。建築の学生は、3日も現場に放り込めば活き活きとした活動を始めます。実地での学習を取り入れたい研究室はたくさんあるはずですから、ぜひURさんとタッグを組んでまちづくりの一助となる機会を作れるといいですね。将来の復興やまちづくりに役立つ人材を育成していただきたいと思います。」

「URの支援先一覧を見るとURに期待。」と福屋氏より

最後に

東日本大震災では、さまざまな分野の人達の「○○として何ができるか。」という自問の声を聞いたように思う。建築家として、学生として、アーティストとして、エンジニアとして、米屋として、花屋として、etc。では、
URとして何ができるか。
おそらくひとつの答えが、官と民をつなぐこと、土木と建築をつなぐこと。官と民は言わずもがなであるが、URが、ニュータウン造成や団地や都市再生を手掛けてきた歴史を通し、土木、建築、都市計画の視点を持ち合わせていることも、貴重なことだ。URの強みとしてうまく生かしていきたい。
それから大事なのが、人々のくらしを作ること。アーキエイドの活動からは、ハードをつくるだけでなく、くらし、なりわいを再生し、将来を描くことが復興なのだと再認識させられた。その根本は都市再生でも同じである、都市再生のプロデュースの中で、ふと視点を変えると、まだまだすべきことやできることがあるのではないかと、襟を正す思いだ。

(おまけ)今回、UR取材メンバーは、牡鹿半島の背骨部分のコバルトラインにて、道路の亀裂でタイヤをパンクさせ、手を焼くこととなった。まだまだ被災地の道路は悪路や細かいがれき等の身体障がい者合も多い。被災地支援に行かれている方も、安全運転を心がけ、ご自愛ください。

(2012.3 H.N)

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