街に、ルネッサンス UR都市機構

第7回都市再生フォーラム 野田武則氏

撓(たわ)まず屈せず —スクラムかまいし復興まちづくりの現在—

 釜石市長の野田です。
 今日はこのような機会をいただき、ありがとうございます。
 被災地の現状、そしてまたどのようなかたちで復旧復興に取り組んでいるかという状況についてお話を進めていきます。
 まず、「撓まず、屈せず」という表題についてですが、岩手県の釜石市、もしかしたらラグビーの町ということでご存じかと思います。近代製鉄発祥の町であり、そしてまたラグビー新日鉄の赤いジャージが7連覇を達成したことで、ラグビーでも大変全国のファンの皆さんから応援をいただいています。

釜石市長 野田 武則 氏 釜石市長
野田 武則 氏

 近代製鉄発祥、今から150数年前ですけれども、南部藩士の大島高任という方が初めて日本で西洋式の洋式高炉で銑鉄の連続出銑に成功いたしました。以来、日本が近代産業、あるいは西洋の技術をわがものにして、先進国の仲間入りをしました。そのスタートを切った場所ということで、われわれとしても大変誇りに思っている町です。
 そのおかげで、日本人が作成した日本で一番最初の海図、港の海図ができたのが釜石港です。2番目が横浜港でした。それから鉄道についても、日本で最初の鉄道は横浜~新橋、2番目が神戸~大阪、実は3番目が釜石でした。国によって、「鉄は国家なり」と言われた時代、かなり釜石に梃入れがなされたということです。

釜石市の位置と地勢、概要

 ただし一方では、このことにより、終戦間際に本州で初めて洋上からの艦砲射撃を受け、街は廃墟に帰しました。明治29年、昭和8年の三陸大津波の際にも、街は壊滅的な被害を受けました。釜石は、過去に幾多の災害に遭遇しながらも、そこから不死鳥のごとく再生してきた歴史があります。そうした苦難を乗り越えながら近代化の道を歩んできたこの街は、今回もまた市民が一つになって、復興へ向けた一歩を踏み出したところです。

 これが釜石です。ここに見えるのが湾港防波堤です。釜石の中心街がこの辺にあり、湾港防波堤によって、釜石の中心街が守られています。
 この湾港防波堤は63メートルの深いところにできており、震災前にギネス登録をしまして、世界で一番深いところにある湾港防波堤でした。今回の津波でこの湾港防波堤も決壊しました。当時の映像です。

震災前の美しい釜石

 <釜石市の津波映像を上映>
 釜石の湾ですが、大槌湾、釜石湾など4つの湾があります。今、お見せしたのは釜石湾です。大槌湾は皆さんテレビなどでご覧の方も多いかもしれません。大槌町の町長も役場も流された被害の大きい町です。この湾は波の高さが結構大きかったためです。
 (釜石東部地区の写真を指して)これが町の中心部です。(鵜住居地区の写真を指して)がれきもだいぶ片付いてまいりましたが大槌湾です。(唐丹地区の写真を指して)それから唐丹湾、唐丹地区の惨状です。

釜石市の津波映像

 湾によって津波の高さが違いました。大槌湾、浸水高17メートル、遡上高19メートル、このようなかたちでそれぞれの湾の形状によって、津波の高さが違います。釜石湾だけが浸水高が11.2メートル、遡上高11.8メートルで、ほかの湾と比較しまして、ずいぶんと低いと思われるかもしれません。
 実はこれが湾港防波堤の効果ではないかと言われています。結果として津波の浸水高と遡上高が約半分、それから津波の襲来を約6分遅延させたと言われています。1分1秒でやっと九死に一生を得た方がたくさんおられますから、そういう意味では「6分」というのは大変大きな数字だと思います。

釜石市の被災状況1

 これは防潮堤です、これは唐丹湾です。この高さは12メートルの防潮堤でした。これはものの見事に決壊をいたしました。

釜石市の被災状況2

 これは震災直後の避難場所です、これはだいぶ落ち着いたあとの避難場所です。廃校になった学校の体育館でしたが、ここには1,000人ぐらいの方が当日避難をしました。当然入り切れませんので、こうした方々は、当日は非常に寒い日でしたので、外でたき火をしながらなんとか夜を明かしました。
 ここでは毛布とか布団がありませんので、新聞紙を1人1枚とか2枚、なんとかかぶりながら寒さをしのいだという場所です。この映像は全国からさまざまな支援をいただいて、このようなかたちでなんとか布団とか衣類といったものが準備されてきたときの映像です。

震災直後の避難・応急復旧1 避難所

 いずれも今回の震災にあたりまして、全国から多くの皆さん方のご支援とご協力をいただきました。
 昨年の8月にそれぞれ被災した方々、それぞれの仮設住宅、あるいは見なし仮設と称されるところに住むことができました。あらためてこの場を借りて皆さん方のご支援に厚く感謝を申し上げたいと思います。

  • 震災直後の避難・応急復旧2 自治体等支援

  • 震災直後の避難・応急復旧3 ボランティア

 今、仮設住宅の話をしましたが、いろいろな仮設住宅がありますが、その中でも非常に先進的な仮設住宅を釜石で作らせていただきました。この仮設住宅の入り口は向かい合わせです。普通の仮設住宅はどちらかに一方入り口があるわけですが、この仮設住宅はお互いの入り口が向かい合わせということで、お隣同士の息づかいや日常の生活の中でお互いの存在を確認し合える、自然なかたちで支え合い、あるいは絆というものを確認し、そういう場所として作られました。入居している方々からも、非常に評価の高い仮設住宅です。

震災直後の避難・応急復旧4 仮設住宅

 がれきも大変な量が発生しました。釜石の場合は82万トンです。このようなかたちでそれぞれの分別をしながら、一定の場所に集めています。撤去率というのは、あくまでも市内の中に集めているというだけで、最終的にこれを市内から全部片付けなければなりません。そのために市内にある焼却炉、あるいは県内の焼却炉を使わせてもらいながら、いろいろと処理をしているわけです。なかなか対応が進まないということで、現在広域の処理のお願いをしているわけです。

震災直後の避難・応急復旧5 がれき処理

 実は今日6月15日というのは明治29年の三陸大津波のまさにその日です。昭和8年にも続けて津波がありました。
 この明治29年の津波も大変大きな津波で、当時釜石市は12,000人ぐらいの人口がありました。今回の3.11と同じ地域に12,000人が住んでいました。現在は38,000人です。この明治29年はその中で、約6,000人、7,000人近い方が亡くなりました。ですから人口の6割7割近くが亡くなった。その教訓を生かすことができませんでした。非常に残念に思います。
 当時は「これより下に家を作るな」という石碑を建てまして、当時の人たちがそういう惨状を決して忘れてはいけない。そのことを伝えるために石碑を建てました。
 あるいは「つなみてんでんこ」という言葉があります。「親は親、子は子、それぞれがてんでんに逃げなさい。つまり、自分で判断して自分だけ逃げなさい。」、そういう非情な感じを受ける言葉です。これがその時から言い伝えとして、伝えられています。

 「つなみてんでんこ」、非常に厳しい言葉です。親はどうしても子どもを助けたい。子は親を助けたい。そういう気持ちがあるわけです。この明治29年、親が子を助けようとして、一緒に流される。子が親を助けようとして亡くなってしまった。ですから、そういうことのないようにという言葉が「つなみてんでんこ」でした。
 その明治29年の記録は、大海嘯記録という記録に残されています。海嘯というのは、今の言葉でいう津波です。当時既に生き延びた生存者の証言が取りまとめられていました。それを読みますと今回の3.11で全く同じことが繰り返されたということが理解できます。

防災体制に対する反省・教訓

 百数十年前の話です。われわれはなんら進化していないということをあらためて感じました。そして反省をしなければなりません。情報伝達体制の不備です。そもそも想定外という言葉を使っております。まさにそのとおりです。われわれも全くこれほど大きな津波が来るとは考えておりませんでした。すべての装備が想定外でした。
 まず防波堤・防潮堤、これは宮城県沖地震を考えて、その対応をしておりました。この津波の想定の高さは6メートルでした。先ほど説明した湾港防波堤は6メートルです。内側に4メートルの防潮堤があります。そうした安心感が大きな誤りでした。

反省と教訓1 情報伝達体制の不備

 当日は、震度6弱の地震が起こり、電気が寸断されてしまいました。そのときの気象庁の発表では岩手県の釜石には、最初3メートルの津波が来るという予報がされました。実はその後、3メートルから6メートル、6メートルから10メートルと変更になっています。しかし、われわれが聞いたのは3メートルで終わってしまいました。
 結果、地域の皆さんに防災行政無線でお伝えしたのは、3メートルのままで伝えてしまいました。とはいっても3メートルの津波は大変大きな津波です。避難には、避難注意、避難勧告、そして避難指示、3つのレベルがあるわけです。その最高のレベルが避難指示です。3メートルですから、当然、避難指示をしました。

防災対策の反省と教訓2 避難環境の未整備

 しかし、3メートルの高さというのは、実は釜石市の人たちにとっては防波堤、防潮堤の高さからするとまだまだ安心できる数値だと思った方が多かったのでないかと思います。今までの津波の経験からすれば、気象庁の発表が例えば、1メートルの津波の場合、実際には約10センチ、2メートルの津波の場合、実際には約20センチ、そういう経験をしてきたわけです。

 いわゆる「オオカミ少年」です。結果として、今回も3メートルの時に、住民がどういった考えをめぐらせたかというのが、われわれとしても反省をしなければならない点です。この点が、今回気象庁では、大きな津波の時は津波の高さを発表しないという方向で検討されていると聞いています。これはまさに的を射た対応ではないかと思っています。
 防災行政無線がそういった状況で、どのように住民の皆さんに情報を伝えたらよいかというのが課題です。

防災対策の反省と教訓3 警報への「慣れ」

 避難訓練を毎年繰り返し開催してきました。しかし、必ずしもその訓練の成果が活かされたとはいえません。高齢化の進展に見合った、特にお年寄りの参加者への配慮が不足していました。結果として避難場所に避難をしても、その避難場所の環境が十分に整っていないということもあって、避難をすることが損、時間の無駄、その場所に行ってもテレビもない、暖房もない。こういう場所で長時間滞在をするのはつまらないこと、いらないことだと思った方が多かったのではないかと思います。訓練の意図をきちんと伝えることができなかったし、その結果、参加者の増加も得られなかった。
 そういう積み重ねが今回の惨事を招いたのかもしれません。
 そういうことから行政として、情報伝達体制のあり方、避難訓練、避難環境のあり方を大きく反省をし、今後につなげなければならないと思います。

防災対策の反省と教訓4 「学校防災教育」

 もう一つ、学校防災教育の大切さです。これについては鵜住居小学校、釜石東中学校がありました。この学校の生徒は、数年前から群馬大学の片田先生の指導を受けながら避難訓練をしていました。今回、その成果が存分に発揮されたと思います。
 まず、生徒の皆さんは第一次の避難場所に逃げました。ところがそこの場所から津波を見たら、思った以上に大きな津波だったというので、その場所からさらに高台の避難場所に移りました。その場所からまた津波を見たら、もしかしたらここにも来るかもしれないということで、またさらに高いところに逃げました。実はこの津波の状況を見ながら高台、高台へと逃げていくことが当たり前のように思うわけですが、これが大きなポイントだったわけです。
 そのことによってこの生徒の皆さんは、全員助かりました。これが「釜石の奇跡」と言われているのです。この学校の皆さんは「最善を尽くす。想定を信じない、そして避難の率先者たる」3つの原則を守りました。「想定を信じるな」とはまさにその通りです、実は大人が想定を信じてしまいました。ここの場所だったらば、ここが避難場所だから、ここに逃げれば安全だろうという思い込みです。実はそのことによって多くの方が亡くなってしまいました。
 子どもたちは状況に応じて、避難場所を変えていきました。そこに非常に大きな違いがあります。要はそういった想定を信じず、自分自身の判断、自分の行動というものをやはり積み重ねていく教育が必要だということが今明らかになったということです。これからの避難訓練、あるいは防災というのは、学校の生徒から、そして大人に至るまで、着実に続けていかなければならないということをあらためて感じたことです。

 今、そうした状況の中で新しいまちづくりに取り組んでおります。釜石の場合は、21の地区に分けておりまして、それぞれの地区の住民の皆さんと話し合いをしながら、「また、元の場所に戻れるの? 戻れないの? 自分で家を建てられるの? 公営住宅等そういった場所に入らなければならないの?」ということで今、仮設に入っている被災された方々はいろいろと悩んでいるかと思います。そういう方々にふるさとの町はこうなるんだよということをお示しをしながら次の人生設計を考えていただくという流れの中で今取り組んでいるわけです。

地域別復興土地利用方針の考え方

 URさんの話もありました。市の職員だけでは当然足りません。URには大変お世話になっておりまして、地域の皆さんとの話し合いの中にも来ていただきながら、専門的な知識、あるいは経験を生かしていただいているということです。
 簡単に釜石の土地利用のあり方について話をさせていただきますが、大きな考え方としては、津波をレベル1、それからレベル2という考え方をさせていただきました。
 このたびの復興構想会議では、この震災の大きな特徴として、防災から減災という考え方が示されたところです。
 今までは防波堤・防潮堤を作れば良かったのですが、そうではなかった。ハードに頼るということは危険だということが示されたわけです。ですから、ハードの部分とそれから避難、あるいは避難の心構え、そういったものを組み合わせながら、進めていかなければならないということです。
 レベル1というのは明治29年、昭和8年の津波の高さに合わせたハードを作る。防波堤、防潮堤の高さはレベル1に合わせようということです。
 レベル2というのは今回の3.11の津波です。防波堤は海のほうにあるものです。防潮堤とは陸側にあるのをいいます。防潮堤の高さは、明治29年、昭和8年の高さで守れるように、後は、減災というものの考え方で多重防御、あるいは避難のしくみで命を守るという考え方です。
 復旧、復興に向けた土地利用のあり方について説明をしますと、まず全体を三つの区分に設定しています。一つ目は非居住圏。人の住まない場所です。ここでは防潮堤の高さは、いわゆるレベル1でつくる。しかし、結果としてレベル2、昨年の3.11の津波だと津波が入ってきます。当然、防潮堤の高さは低いですから、津波が入ってきます。ですから、この一番危険な場所には人は住まない。家は建てない。非住居圏にしようという考え方です。
 二つ目は地盤の嵩上げを行う区域。つまり、ここには津波が入ってくるのだが、津波の高さが低いので、高層ビルとか避難ビルのような建物にして上の階には住める。
 三つ目は集落そのものを高台へ移転しようとする区域。こちらは津波の浸水が及ばない場所なので全く安全だ。こういう考え方で3つの土地利用の在り方を示させていただきました。
 この非住居圏のところは、いわゆる産業系の企業などを誘致をしようということで今進めています。
 鵜住居小学校と釜石東中学校はこの辺です。これはシミュレーションですが、3.11の津波が来た場合は、また、このような区域には、津波が浸水します。ですから、ここは住んではいけない場所にしようというようなことにしています。
 このように21地区で、それぞれの地域の皆さんと今話し合いをしながら、進めています。

  • 津波被災地域

  • 片岸・鵜住居・根浜・箱崎地区[津波シミュレーション]

 釜石は震災前から、人口減、あるいは少子高齢化という町でしたので、この震災を契機にさらに傷が深くなる。地域の存亡にかかわる状況にあるという認識の中で、これからもこの地域が持続可能な地域として、発展するにはどうしたらいいかということが最大のテーマになっています。

被災者が抱える課題と対策1

 被災された方々はお一人お一人が自らの住まいを確保、あるいは仕事の確保、さまざま悩みを抱えておりますが、地域全体としては、持続可能な地域として、どうこれを発展させていくかということが最大のテーマです。

被災者が抱える課題と対策2

 これを解決するための一つの選択肢として今現在考えていますのは1つはスマートコミュニティー、いわゆる時代の先駆的なまちづくりにしながら、この場所に住んで良かった。あるいは住み続けていきたい町に、次の世代の皆さんも喜んで一緒に住める。そういう町にしようということです。
 それからもう一つは、先ほどの鵜住居小学校、釜石東中学校の生徒の皆さんの場所がありましたが、あの場所を2019年に開催されるワールドカップのスタジアムとして、被災した場所から全国に、あるいは全世界に復旧の姿をご覧いただきたい。そしてまた全国の皆さんから応援、全世界の皆さんからご支援をいただいたわけですから、その恩返しをしようということで、現在、オール岩手で釜石にワールドカップを誘致しようという運動を展開しているところです。

復興道路

 いずれ将来にわたる希望の光をこの地域にもたらしながら、この地域に住んでいる人たちが、やはりこの三陸に住んで良かったと。
 そしてまた全国の皆さんにも、三陸はまだまだ健在だと、これからもここ地域が発展していくんだという姿をぜひお見せさせていただきたいと考えています。また、そのための応援も今後とも引き続きお願い申し上げたい思います。
 今日は本当にこのような機会をいただきまして、被災地の現状と現在の取り組みについて報告をさせていただきました。皆さんのご清聴、心からお礼を申し上げたいと思います。誠にありがとうございます。

ラグビーW杯釜石大会誘致にむけて

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