街に、ルネッサンス UR都市機構

第7回都市再生フォーラム 大西隆氏

復興から都市の未来を考える

 東京大学の大西です。
 今日は「復興から都市の未来を考える」というタイトルです。今日の話の展開はこのような小見出しになっています。
 「復興から都市の未来を考える」、未来を考えるとどうなるのか。結論は非常に単純明快で、はっきりしています。安全安心を都市の未来にしっかり置く考えを定着させる方針でいかなければならないことに尽きます。その結論を置いて、そこに至る私なりの話をさせていただきたいと思います。
 去年の今ごろは「東日本大震災復興構想会議」の最終的な取りまとめをしていた時でした。私もその委員になり、15、6人のメンバーと一緒に、最後のまとめをしていました。

東京大学工学系研究科教授 日本学術会議会長 大西 隆 氏 東京大学工学系研究科教授
日本学術会議会長
大西 隆 氏

 その復興構想会議も過去の組織になっているわけで、それが政府の復興の構想基本計画につながって具体的な予算措置、あるいは復興の具体的な制度がその後確立されてきました。
 その時期から1年たって個人的には去年の10月から日本学術会議会長に選出されました。日本学術会議をご存じの方がどれぐらいいるか分かりませんが、私が17人目の会長です。これまでは物理学者あるいは医学者の方々が会長をされています。私は都市計画が専門で、それまで60数年の学術会議の歴史の中で会員が1人いただけです。もちろん役員になった人はいません。

復興から都市の未来を考える

 私が選ばれたことは、学術の世界の中で大きく変化があったということです。つまり東日本大震災の津波の被害、それから原子力発電所の事故が学術、科学技術の成果を活用したまちづくりであったり、あるいは発電所の建設稼働であったわけで、それが大きな地震災害の前に大きな犠牲を出し、これまでの科学技術のあり方そのものが見直されています。
 それに携わった方々が大きな反省をしていることから、いわば科学技術の一番出口に近い都市計画、科学技術のあり方をもう1回見直そうという機運、議論が深まって、選ばれる結果になったのではないかと去年の10月に感じました。

 最初にやった仕事が、東日本大震災復興支援委員会という組織を学術会議の中に立ち上げ、支援について大きく分けて3つのテーマの議論を始めました。
 それが最初のパートです。「提言一覧」と書いてありますが、「二度と津波犠牲者を出さないまちづくり」と、それから「被災地の求職者支援と復興法人創設」という、「産業と雇用」のテーマです。
 それから「放射能対策の新たな一歩を踏み出すために」という、福島における放射能対策です。「災害廃棄物の広域処理のあり方」の4つのテーマを取り上げて、ちょうどおよそ1年目になる3月の末にまとめて、4月の初めに発表しました。

学術からの提言-今、復興の力強い歩みを

 今日はこの4つのテーマ全体をお話しすることはできませんが、特に最初の2つ。今日は野田市長もいるので、「津波被災地の復興」に焦点を当て、そこに深く関係した「まちづくりと産業」、「雇用の復興」というテーマで話します。
 島の復興も津波被災地に加えて原発の事故に見舞われたとことで、より深刻な意味を持っています。したがって、これから復興問題を考えていく時には、福島県をどう復興させていくのかというテーマが重要度を増していくと感じております。
 学術会議では提言を4月にまとめたわけですが、それ以降新たな展開として、福島の復興、エネルギー政策のあり方に加え、今回の津波被災の教訓をいかに全国に伝えるか。これから大きな自然災害に見舞われるところに応用していくテーマに取り組んでいこうと考えています。
 具体的にはその転換期ですが、まちづくりと産業に焦点を当てて話をさせていただきます。

 これからの話は学術会議で議論の中に私が中心として加わったので、その提言と深くリンクはしています。さらに個人の見方、見解も話の中に出てきます。
 まちづくりについて、私はかねて「減災」という考え方を取っています。「かねて」というのは、ちょうど1年少し前から、それを強く感じました。
 被災地を訪ねて一番感じたことは、防災施設があったわけです。けれども、それは結果としては完全には災害を防ぐことができなかった。人為を超えた結果、つまり人の力で自然災害を完全に食い止める、抑えるということはできないことを強く認識せざるを得なかったのが、東日本大震災でした。

繰り返される津波被害 被災によるまちづくり

 ただ同時に、被災地の被災者の方々の話を伺うと、「あの防潮堤がなかったらもっと水が上まで来ていた」、「自分の家も危なかった」、「自分の逃げていた場所避難場所も水につかったのかもしれない」ということで最終的には壊れてしまった防災施設、防波堤・防潮堤の役割を感じておられた方もいました。
 野田市長の話でもあるかもしれませんが、釜石の町もやられたましたが、ほかの地域に比べるとまだ家が残っている数が多いという結果があります。
 湾港防波堤、これも最終的には崩壊をしましたが、よく伝えられているように数分間波と戦ってくれた。そのことが結果として市街地に浸水した水の量を減らしたという分析も行われています。
 したがって防災施設の役割をきちんと位置づけなければいけません。過小評価も過大評価もしなくてはいけないということです。
 2つ目はまちづくりそのものです。学術会議の提言の中では、「二度と津波被害を出さないまちづくり」、「津波犠牲者を出さないまちづくり」というタイトルが出ました。
 これらは研究者の中で議論になりまして、科学的な根拠に基づいて提言を書くというのが学術会議のスタイルなので「『二度と犠牲者を出さない』ということは単なる願望を表しているだけでは」という意見がありました。
 私はそれに対して、津波災害と地震災害とは違うのでないかと考えています。地震災害は揺れがどこに来るか、かなり不確定です。一番強い揺れがどこに現れるか。ただ、津波は海から水が入ってくるわけで低いところです。どこまで来るかというのはなかなか予測が不可能ですが、いきなり高いところに達するわけでなく、下からつかってきます。
 したがって高台に住むということは最も単純で、ある意味明快な被害の防ぎ方です。高台に住むというのは、今回、高台移転に今まさに取り組まれているわけです。
 三陸では1933年、昭和三陸地震津波の直後、組織的に政府が音頭を取って呼びかけて、各地域で高台を探してそこに移ろうということが行われました。
 もっと被害の大きかった明治の時は、まだ、そこまで国全体に力がありませんでした。個別的な復興が行われた記録が残っていますが、昭和8年の津波については組織的な事業が行われました。
 その時の事業のポイントが高台移転ということでした。まさに今日行われているのとほぼ同じ議論の展開です。まず適当な場所を探して、それがあれば移転します。こういうケースの議論を重ねて、うまくまとまれば移転することが記録によると大小合わせて百数カ所で行われました。
 ある意味で、その高台移転が効果があったのか。それが今回の津波で試されたことになります。そのことについては、あとで触れたいと思います。
 ただ、現在考える高台移転は、文字通りの高い土地だけではなく、いろいろな技術を加味した工夫があります。
 高層ビル、中高層のビルを作って、水につからない高さから上に人が居住するというやり方です。あるいは人工デッキ、地盤を作ってその上に建物を建てる。場合によってはその1階部分に商業施設に使って 上の階に暮らすということで、津波につからない工夫をする。そういう工夫ができるかどうかというのがまちづくりです。
 一方で、町の中には商業施設、工業といった産業の施設があります。こういう施設は交通条件が住宅以上にシビアです。便利な場所でないと商業が優位に展開できません。利便性が損なわれる問題があります。
 加えて、そういうところで普段働く人たちは比較的若い年齢の方が多いです。動き回れる人たちが多いので、いざ地震があった時には、適切な指示があれば逃げることができます。住宅の中で寝たきりの人がいることも考えなければいけない状況とは異なります。
 そういうことを勘案するとまちづくりはやや複眼的に低地の利用の仕方、産業用を中心にした利用、それから高さを確保した住宅についての利用がある一定の高さ以上で行われることを考えていく必要があります。
 しかし、それでも最後は逃げることを考える必要があります。避難です。避難のためには避難路が必要で、さらに避難路の先に避難場所が作られてました。釜石の例で、あるところが避難訓練が毎年行われています。
 三陸では、3月3日が昭和8年の津波の日で、この日に避難訓練を行うケースが多かった、まだ寒い時期です。高台の避難場所というのは、結構行くのが大変です。坂あるいは階段を伝っていきます。そこではいつのころからか、少し簡便な方法で町中の集会所に集まるということで避難をしそこに集まって、話をして解散。それ以外にいろいろな警報も出るたびに一番高いところに逃げるのです。
 しかし、本来の避難場所でないところに人が集まったために犠牲者が増えたという現場もありました。
 したがって、避難というのは訓練の場合でも、正しい方向に避難します。それも体に覚え込ませる必要がある。しかし、一方で高台避難場所まで毎回行くというのがなかなか大変であれば、途中にいくつかスポットを作ります。そこから海の様子がよく分かるように、もし本当に危険があれば、さらに上に上がっていく段階的に避難場所へ誘導されるよう、そういう仕組み、階段なり上がり口に見晴らしのきく場所で確認できる工夫もいります。
 いずれにしても防災施設とまちづくりと避難を組み合わせて、安全な町を考えるのが1つのポイントです。それをすべての施設について、安全をあるいは土地を確保するわけです。
 しかし、人命については、犠牲者を無くすという観点で、「減災」と名付けたわけです。
 日本では、これまで「防災」という言葉がもっぱら使われてきました。防災は文字通り災害を防ぐことですが、災害を防いで被害をゼロにするということは実際にはできないわけです。
 したがって、人命の犠牲は無くするけれども、物的な被害は、大きな災害では覚悟するということが、いわば町の日常生活、災害時の対策を両立させる道です。

 そういう観点から今後の復興のあり方を見る時に、1933年以降の先輩たちの取り組みが参考なるのではと、あらためてその経験を踏まえて、今進行している復興事業に取り組んでいくべきではというのが次のパートです。
 3つ事例です。岩手県の事例です。最初の事例は岩手県の大船渡市吉浜という地域です。ほぼ家も人も無傷だった場所です。このあたりに400戸ぐらいの集落がありました。低いところが農地で、これが明治の津波のあとから上に上がり、津波のあと、完全に上に上がって、それ以後、下にほとんど家が建っていません。
 これが被災区でピンクが浸水区域、青が家が壊れた場所です。ごく一部が家があったことが分かりました。

岩手県大船渡市三陸町吉浜 1977年
岩手県大船渡市三陸町吉浜 2011年津波遡上範囲日本地理学会

 横から撮った写真で、これは水につかっていますが、あまりがれきがありません。家は無事です

  • 岩手県大船渡市三陸町吉浜 高台の集落

  • 岩手県大船渡市三陸町吉浜 破壊された防湖堤

 海岸線のところには防潮堤ができていたのですが、これは壊れてしまいました。しかし、ここでもこの防潮堤が壊れるまでに多少の効果を上げて、家のところまで水が及ばなかったという実感を持っている被災者の方がいたということです。
 今の例は、高台移転が功を奏した例で、実はこういう例は残念ながらかなり少なかったわけです。私が確認したのでは、2例ぐらいしかありません。少しまとまった集落があった場所では、非常に少ないです。

  • 岩手県釜石市唐丹本郷 1977年

  • 2011年津波家屋被害、津波遡上 岩手県釜石市唐丹本郷

 2つ目が釜石の唐丹本郷というさっきの場所から少し北、釜石の中では南のほうに位置する集落です。海がこちらで、それから津波が来た。ちょうどこの三角、白っぽくなっているところ、ここが高台移転の集落です。昭和の津波のあと、本格的に移転しました。しかし、元あった場所、平地にもその後、家があって、ここが被害に遭いました。
 ピンクが浸水区域で、そこにかなり広く紫がかかっています。この部分がいわゆる壊れたところです津波がこちらから来て、ちょうど裏側の半島を越えた反対側の浜から入り、トンネルを通ってこちらの集落も襲いました。いわば攻撃されるような格好で50戸ばかりの家が流されました。

 これが被災直後の写真で、高台に100戸ぐらい建物が移してあったけれども、この平地にあった建物が流されたということです。
 なぜ、平地にあったのでしょうか。
 その理由の1つがこの防潮堤です。
 この防潮堤は、先ほどの浜のところにできたわけで、10メートルの非常に立派な防潮堤で、これは被災のあとですが、大きくは壊れていません。しかし、この防潮堤を越えて水が中に入って、さらにトンネルを通った水とぶつかって大きな被害となるのですが、これができたのがチリ津波のあとで、こうした防潮堤が三陸一帯で普及していったわけです。

岩手県釜石市唐丹本郷地区 被災後

 まず、その背景にはチリ津波はすごく大きな波となって、被害が出たところもあるわけです。
 全体で150人ぐらい犠牲者が出て、明治・昭和・今回比べると数は少ないです。多くの浜では、それほど高い大きな津波ではありませんでした。そこで、そうした防潮堤・防波堤で津波を防ぐことができるのではという考え方がだんだん浸透していったわけです。釜石の防波堤もそのチリ津波のあとにできた。ここもそうした過程の中でできています。
 しかし、大きな構造物を作ることですから、作るにあたって、やはり地元の協力が必要です。協力のあかしとして、この裏側の土地利用も可能になるということが生じました。

岩手県釜石市唐丹本郷 防湖堤

 したがって、この防潮堤ができたあと、裏側の土地利用、いったんは全部そこから上がったわけですが、それ以降家が建つようになって、50戸ぐらいの家が被災地周辺にはあり、部分的に高台移転は成功したわけですが、部分的にはその後平地にも家が建ち、そこが被災し、そういう意味では失敗でした。
 こうした半分セーフ、半分アウトという事例は非常にたくさんあります。中には高台そのものが中途半端で、高台に上がった家も部分的に流された。あるいは全部流されてしまったというところもあります。
 そういうところも含めて、部分的にしか効果を上げなかったところがかなり多いです。

 最後の例は岩手県のもう少し北に上がって、宮古市の田老です。今日来られている方々の中にも「田老」と聞いてぴんと来る方が多いと思います。津波対策で極めて有名な場所でした。田老村、田老町、現在宮古市の田老地区です。
 どうして有名であったかというと、非常に立派な防潮堤を作った町、防潮堤に囲まれた町で有名になっています。航空写真ではっきりしませんが、最初の防潮堤が町に向かって、くの字に折れ曲がった1,200メートル、高さが10メートルの防潮堤です。
 昭和の津波のあと、建設が始まりました。特に最初の時、初年度は村の官費で事業を行いました。なぜ、そうなったかというと、当時政府は高台に移転を勧めていたので、高台移転をしないで防潮堤で守ろうという政府の方針に反していたわけです。

岩手県宮古市田老 2011年被災前

 そこで支援をしなかったわけですが、官費で防潮堤を作るということに村が決めて事業を始めました。2年目から公共事業として、お金を出して、県、国が指導して完成します。ずいぶん歳月がたって、チリ津波の前に完成しました。
 なぜ、防潮堤案を選んだかというと、こうした地形の中で、適当な高台が見いだせなかったのです。当時の基準からすると適当な高台は3つから7つの基準があって高台を選んでいました。重要なのは港が見える、南向きの斜面です。こうしていくと近場で南向きの斜面に十分なスペースが取れないということで、それに換えて防潮堤を選んだということが記録に残っています。

 これがその防潮堤で、チリ津波にその後遭って、しかし、チリ津波は幸いにもこの田老では大きな被害がありませんでした。防潮堤まで届かない程度の波だったということもありますが、ほかの地域で被害が出たということを踏まえて、もう一つ防潮堤を作る必要があり、海側にもう一重、1,200メートルの防潮堤を作りました。

岩手県宮古市田老 防湖堤

 しかし、3月11日、これまさに防潮堤を津波が乗り越える瞬間ですが、防潮堤を乗り越えて中に水が入ってきて被災しました。高さが十分でなかったのですが、多くの家屋が流されました。

  • 岩手県宮古市田老

  • 岩手県宮古市田老 防湖堤

 同じようにこれが浸水区域で家が流された紫のマークですが、非常に広く広がっていることが分かります。
 この3つの例、これがすべてではありませんが、高台に移転して、安全を確保するということが、なかなか大変です。なんといっても既に1回昭和の津波のあとに高台探しが行われています。適当な高台があったところでは、今、見た例のようにそこに移っているわけです、その時に移れなかったということは適当な高台がなかったということです。
 それから、田老のようにあるいはほかの少し大きな町の中心部のようにあまりにも集積が大きい、それを全部収容する高台というのは見いだせない、釜石の中心部、大船渡の中心部、陸前高田の中心部、あるいは石巻ということになります。

岩手県宮古市田老 浸水範囲、建物被害範囲(2011年日本地理学会)

 昭和の津波と同じような議論をしながら、どうやってその限界を超えるのか。きちんと安全を確保するのかという岐路に立たされています。
 私は、多少の無理をしても住宅については安全を確保することが重要と思います。妥協しないことが極めて大事だと思います。おそらく、何百年かを考えれば、必ず似たような津波が来ます。今、住宅をどこに作るのかを決めることは子孫がそれをずーっと継いで生きていくことを考え、何百年か先の集落の場所も決めてしまうことになります。まさに百年の計、あるいは千年の計と思います。
 こうやって安全を確保して、復興を議論し、実践しているわけですが、被災地の心配はそうやって家が復興する時に、果たして住む人がいるのかということです。

廃墟となった市街地(岩手県宮古市田老)

 このグラフは青、赤の棒グラフです。青の線は野田村からいわき市までの2005年から2010年までの5年間の人口の増減を表しています。赤の線は去年の3月から12月まで、10カ月の人口の増減。国勢調査と住民基本台帳でベースは違いますが、人口の変化を表しています。
 むしろ10カ月間の減少量が多いというデータです。亡くなった方もこの中に含まれていますが、社会移動、流出によって人が減っている。この状態がまだ続いているということです。したがってこの状態が続いた場合に、1年2年先に集落がこうして、誰が住むのかという、非常に心配が持ち上がっている。そこで重要になるのが、仕事の復興です。
 私ども復興構想会議でも産業雇用の復興を提言したわけであります。それはいくつかのテーマからなっています。

東日本大震災被災市町村に人口変化 震災前5年間と震災後10ヶ月
産業・雇用の復興

 私はかねてから復興のまちづくり会社という、まさに将来1人立ちして雇用を吸収していく組織の効果的な形態を復興の初期の段階で作っていくのが必要ではないかということを話してきました。
 それはどういう分野の仕事で、将来企業が成り立っていくかがまず第一に問われます。
 ここでは地域エネルギー供給、観光、あるいは中心市街地、水産業の独自産業化等々を挙げています、地元に縁のある分野、こういうところから手をつけて、それを産業として自立させていく。そのためにはここをリードしていく人材がいります。

復興まちづくり会社

 今、多くの自治体が被災地のことに関心を持っているわけですが、もっと長く自治体のために頑張ることが必要です。Uターンすることが必要ですし、新しく被災地に行って新しい仕事をやってみようというような人も復興のボランティア活動等が縁で出てくることが必要です。
 さらには資金が必要になります。幸い復興に関するさまざまな公的資金が投入されていますから、この一部を着実に将来のために投資していくことが必要です。さらにアイデア、知識が必要です。
 これらの人材が色々な知識を持って地元に入っていくという事で少し長いスパンで、数年間で新しい産業雇用を生み出します。そうした活動を被災地で興していきます。これを町の復興を車の両輪としてやる必要があります。

最後に、これからの課題と私が今申し上げた話題で非常に期待をしているのが、主催者でもありますUR都市機構のこれまでの活動です。そのことに触れておきます。
これからの課題については、車の両輪として、町の復興と産業の復興、これを進めていくことですが、同時に今回の被災からの教訓をくみ取っていく必要があります。
それは危ないところに作らないということではないかと思います。
これまで日本は人口増加社会でありました。今は人口が横ばい、これから急減していきます。今までは新たな土地が必要でしたが、今はそうでもなくなりました。これからは不要になります。不要になる中で、なかなか大変ですが、居住地あるいは人間が利用する土地の再編成をしていくことが必要になります。

これからの課題

コンパクトシティと言われるようなアイデアです。危険な場所は人が住んだり、いったん復興したりする場所としては使いません。そういう場所から撤退して、より安全な場所で人間の復興を行っていくのです。そういうメリハリをつけていくことが必要です。
手段としてはいろいろな手段が用意されているわけで、うまく活用して、土地利用のあり方を見直していくことです。
それから、これから津波が次に起こる場所は、三陸とは限りません。むしろ、神奈川県から九州の東海岸、太平洋岸が次の自然災害、危険な場所だと言われているわけです。ここでどう安全を確保するかということです。
予防的な安全策というのが極めて重要で、今回の三陸復興のいろいろなアイデア、知恵をそこに予防的に生かしていくことも大きな仕事ではないかと考えます。
そこで、国が主導してそれをどうやって進めていくのかということで、私が期待しているのがURの活動です。

URの組織は、こういう時のために国の関連機関として、存続してきたのではないか。普段、やっている住宅の建設というのは、ある意味でも民間でもやれることですが、何かこうした大きな災害等があった場合に、復興というのは集中的に取り組まなければいけません。ある意味で採算ベースを度外視して、その時に中核になるような組織が必要で、それが存在するわけだから、是非それを活用してやった方が良い。併せて、今日の釜石市でもそうですが、是非できればURの職員を市の職員にしていただいて、地元の人間として復興にあたれるような仕組みを作ることも必要だと思います。

これからいよいよ本格的な復興、まちづくりに入っていきます。さらに一段と強力に取り組んでいくことが必要です。 併せて、これから予防的な安全安心のまちづくりについても、国の主導できっかけを作る。多くの建物を民間が建てるにしても、きっかけを作っていくことが必要ではと思います。
われわれはそういう意味で公的な重要性をこの災害を通じてあらためて認めて、うまくそれを活用していく必要性があることを感じました。 どうもご清聴、ありがとうございました。

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