街に、ルネッサンス UR都市機構

街みちネット 第22回見学・交流会「太子堂2・3丁目地区のまちづくり」

これまでの活動の紹介

活動議事録

講演4「太子堂2・3丁目地区のまちづくり」

太子堂2・3丁目地区まちづくり協議会 梅津 政之輔 氏
はじめに
  • 先ほど来お話がありましたように、38年間の協議会での具体的な活動を説明していますと、一日かかっても終わりません。携わってきたことの項目は、二見さんや井上さんからお話がありましたから、ここでは10年前に建築学会から頼まれて書いた、「まちづくり教科書」の一部をお配りしています。私自身もその後の活動を通していろいろ学び、多少は進化してきたつもりですが、80歳を越えたので、そろそろ引退しなければいけないということで、この本は次世代の人への引継書として書いた「暮らしがあるからまちなのだ」の原稿を井上さんが出版社に持ち込んでくれて、3年前に出版されたものです。
    実際の太子堂のまちづくりは、非常にドロドロした活動がたくさんあります。そうした話は後々、差し障りがありますから、「まちづくり教科書」には多少はしょって書いてある部分もありますが、太子堂に関心がおありでしたらこの本を読んでみてください。
  • 私からは、住民の立場での話をします。私は今ではもう協議会の役員も、地域のいろいろな活動の役員も全部引退させていただいておりますが、まちづくりについて頭の整理をするために、また、まちを視察に来られる人に私が何を考えているかおわかりいただくために、作ったメモをお配ります。今日は時間が許す限り、URが太子堂のまちづくりにかかわった部分についてお話しして、最後に、専門家の皆さんが多いので、このメモ書きの(3)「society5.0」時代への対応ということで、今後のまちづくりのあり方をぜひ皆さんに考えていただき、いろいろ教えていただけたらと思っております。
太子堂まちづくりの特徴
  • 太子堂のまちづくりの特徴である住民参加や修復型ですが、住民参加は日本で神戸市とともに最初に条例で決めた街づくりのやり方です。現在ではどこでも、名目的には住民参加のまちづくりを進めていますが、正直、世田谷区でもそうですが、PC方式(パブリックコメント)などと言って電話でアンケートなど取ってお終いにしている住民参加型があります。これは本物の参加ではないと思っています。そして住民は、住民参加というと要求・批判を行政に向けて終わらせる人が圧倒的に多く、これも問題だろうと思っています。
  • 修復型は、リハビリ型とか、最近ではリノベーションまちづくりなどという言い方をされている方がいます。国交省、東京都、世田谷区の職員の中にも、この方法は事業を進めるうえで時間がかかるため批判的な人が非常に多いです。特に、平成10年には、建設省市街地住宅整備室から修復型について文書が発行されました。「密集事業の円滑な実施のためには、住民等の理解を得ることが重要であることは当然であるが、緊急性を要する課題であることを前提とすることを忘れてはならない」と。太子堂とは言っていませんが、「一部の地区においては、住民意向を尊重することを重視するあまり、自然発生的な建替え意向に合わせて建替え助成や地区整備を実施することを基本方針としている場合があるが、これは事業目的の達成に極めて長期間を要することとなり、緊急性を要する課題に対する取組とは言い難い」とまで指摘されています。このような指摘は平成10年以前から出されていまして、区の担当者が密集事業の延伸手続に建設省へ行った際に、「修復型」という言葉を使うのであれば延伸手続を認めない、と言われるほど激しい批判を受けたそうです。
  • しかし最近は、太子堂の修復型についての批判はおさまりました。それは、先ほど報告がありましたように、密集事業の一つの目標である不燃領域率が、ほかの地域に比べて早く——平成32年で70%という目標を5年前倒しで実現したという実績が、評価されたのではないかと思っています。
  • 太子堂の協議会のあり方は、住民参加の一つのモデルですし、また、先進事例という評価を受けてきました。今でもいろいろな団体が視察に来られます。私が協議会の中で一番古顔ですから、大体引っ張り出されて、今日のように説明させていただいていますが、国内だけではなくて、海外からも視察に来ています。最も多いのが韓国ですが、今年視察にこられた外国では、中国の湖南大学の先生が学生を連れて来られましたし、先々週でしたか、韓国の大邱市の職員の方々が視察に来られました。
  • 太子堂のまちづくりは、高度成長期に始まったまちづくりで、時代の変化に伴ってまちづくりの方法は変えていかなければならないと思っています。ですから、最近視察に来られる人には、もう太子堂のまちづくりは苔が生えています、と言います。やはり新しい時代に対応する、あるいは、その地域に対応するまちづくりをぜひ考えていただきたいと、挨拶をさせていただいております。
  • この間来られた大邱市の職員にも、太子堂の住民参加よりも、韓国でもっと進んでいる地域があるではないかという話をしました。ソウルにはソンミサン・マウルという地域がありまして、最初は住民の環境反対運動から始まって、現在は協同組合方式で学校を整備して自分たちで経営しています。また、南韓国のクァンジュ(光州)市の職員が教えてくれたのですが、そこでは議会の予算編成に住民が参加するなど、日本よりももっと進んでいます。その話を私がすると、大邱市の職員が、大邱でも予算編成を条例で決めた住民参加型でやっていますと。そこで、お互いにこれから、政治的対立あるいは経済的な競争関係などいろいろあるけれども、まちづくりは市民同士の交流をしていきたいという話をさせていただきました。
太子堂まちづくり計画の成果と課題
  • 太子堂のまちづくりは評価されている面もありますが、一方ではまだ多くの課題があります。まちづくりには対立が避けられない。これは、企業には事業化の論理が、行政には行政の論理がありますし、住民は暮らしの論理がありますから、その論理同士をぶつけ合っても、恐らく解決ができない。そういう中でどういう合意形成を目指していったらいいのかということに、私自身は一番頭を痛めてきたところです。
  • 明確な解答はありません。これは、行政も、事業者も、住民も、話し合いを通して、お互いに意識改革をしていく必要があるのではないかと思います。対話と協働作業を通して、お互いに進化していくべきではないかという方向だけは考えていますけれども。ただ、この面では、URが国立小児病院跡地の計画で住民の意見をかなり取り入れながら、例えば高さ制限の問題、道路の問題などについて、さらに景観の問題まで配慮して公募条件に盛り込んでくれました。こういう道を、是非これからのまちづくりでも考えていっていただきたいと思っております。
  • もう一つ、今の太子堂のまちづくり協議会はどうかということについてです。地区計画や、地区街づくり計画が決まると、当初参加していた人たちは、定例会に出てこなくなります。1982年に協議会を発足させて、個人参加ということを条件に公募して、50人が参加しました。当初は、テーマにもよりますが、毎月の会議に30人から40人くらい参加してくださっていたものが、地区計画の内容が決まると徐々に減っていきます。更に、38年も経つと人が替わっていきます。協議会参加者は延べ人員が約150名、このうちの3分の1は既に亡くなっています。最近定例会に出席するのは、5~6人で、30年近く参加していながら、未だに要求・批判型の域を脱することができない人もいます。しかも、参加している人は私よりも若いのですが、ほぼ後期高齢者になっている人ばかりです。これでは新しい世の中に対応するまちづくりは進めていけないと思っています。
  • 私は大体、まちづくり協議会は組織というよりは話し合いの広場だと考えています。そこでいろいろ地区計画の内容を議論しながら進めてきましたが、協議会のメンバーは決して選挙で選ばれた代表ではありません。協議会の50人程度の人間が、権利の制限を伴うような計画を決めること自体に問題があると思います。ですから、権利の制限を伴うような道路計画等については、やはり沿道会議を開いてみんなの意見で決めるべきだという考え方ですすめてきました。
太子堂まちづくりにまつわるお話し
  • 太子堂は、大正12年の関東大震災で被災した人が大量に移り住んで密集市街地になりました。昭和20年には空襲で太子堂の半分くらいが焼けました。その後に、また小さな家がどんどん建て込むという、この2度の機会を通して現在の密集市街地ができたのが経緯です。今でも関東大震災当時の面影を残した長屋が残っています。今日のまち歩きのコースとして烏山川緑道を通りますが、緑道の左側にはせせらぎを流しています。是非、せせらぎだけではなく、右側もご覧いただきたいと思います。ここには、関東大震災で移り住んだ時に建てた無接道の家が今でもたくさん残っています。この状態を防災まちづくりの対策としてどのように解決していくかいう課題が依然として残っていることだけ、触れておきたいと思います。
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  • 写真は「きつねまつり」を実施したときのもので、オリエンテーリングの様子です。ワークショップを開いたりする提案は、千葉大学大学院教授の木下勇さんから出されました。彼は活動が始まった頃は太子堂に住んでいて、東京工大の青木研究室の大学院生でした。彼の話によると、青木先生という人からアメリカでは都市整備にワークショップという手法を使っていることを教わって、私に太子堂でワークショップをさせてくれと言ってきたのがこの木下先生です。
    彼はこども環境学会の理事をされていたので、若い人を集めて、太子堂で「子どもの遊びと街研究会」を立ち上げて、トヨタ財団から500万円の金賞を取って、3世代マップなどを作成し、評価されています。彼らの提案で、オリエンテーリングを行いました。内容は、公園などまちづくりの見える成果のあるところを回っていただくもので、子供だけではなく、親も一緒に来るので、大人にもまちづくりを知ってもらうことになります。クイズが解けないと、近所の床屋のおじいさんが出てきて一緒に考えてくれたりしました。
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  • これはポケットパークの第1号で、右側の道路を広げるために1軒買収した跡を、ポケットパークと呼ぶ小さな公園にしたものです。住民参加でデザインを計画し、周囲の竹垣も近所の人がつくっていますし、後の自主管理もしています。
    先ほど井上さんが、時には100人くらい集まったとおっしゃっていましたが、ここで餅つきをはじめとする行事を15年間行いました。O157という食中毒事件が社会的に問題になった際に、ここで発生するといけないということでやめました。2年後に復活しようとしたら、臼を持てる人がいないわけです。それで結局やめてしまったという経緯があります。
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  • 防災の視点だけでまちづくりを検討していると問題があるということで、老後も住み続けられるまちづくりをテーマとしたワークショップを行ったときの写真です。当時のまちづくり課長が理解して予算をつけてくれたので実施できました。40人の定員で募集したら70人くらい集まって、会場はいっぱいでした。ここで6つの提案がまとまりました。その一つが「楽働クラブ」をつくること。この提案説明をした女性はまだ大学生でしたが、高齢化社会での寝たきり対策や介護、孤独死などについていろいろ考えて、それをテーマにすると思って参加した。ところが、太子堂のお年寄りをヒアリングして歩いたら、みんな元気でいろいろな知識を持っている。そうした年寄りの知見をみんなで生かすべきではないかということで、「楽働クラブ」をつくろうという提案になったわけです。
  • 花を植えることが好きな人がいたので、区が買収した空き地に花を植える活動をしてきました。当初、井上さんなどにも手伝っていただき、6人くらいで始まりました。それを見た地元の三宿小学校の家庭科の先生が、子どもたちにも花植えを教えてほしいと言うので活動が広がり、これはもう20年続いています。ついこの間も、緑道の花壇で花植えを教えていました。今、「楽働クラブ」は28人まで増え、それを見た地域の人がまた別のところで、自分たちもやろうと公園の自主管理の活動が広がっています。協議会活動も、三宿一丁目や太子堂四丁目などに波及していますが、いわゆるコミュニティづくりの面でも波及してきています。
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  • これは緑道で子どもたちが花植えをしている時の写真です。太子堂の子供は土いじりをしていないので、ミミズが出てきただけで怖がりますが、協議会の方が子供たちに、ミミズがいかに土の中で大切な役割を果たしているかということを教えている、僕の大好きな写真です。いわゆる課外授業です。学校はそのお礼に、ふれあい給食に招待してくれます。三宿の協議会の会長さんの家に伺ったときに、うちのお父さんは自分の子どもが小学校に通っているころは一回も行ったことがないが、ふれあい給食の日は朝からソワソワしていると。会長さんいわく、うちの孫は言うことを聞かないけど、ここの子はみんな言うことを聞いてくれるから楽しくて出席していると。こんな風にコミュニティが広がってきています。こうした活動は、防犯対策にも効果があると世田谷警察から楽働クラブは表彰されました。
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  • かつての烏山川は、戦後家が密集してくると川がドブ川のように汚くなったし、夕立で川が溢れるようになったため蓋をして上を緑道にしたと聞いていました。しかし、この川を暗渠にした本当の理由は、別にありました。昭和45年段階で、世田谷区の下水道普及率はわずか2%でした。いざ下水本管を埋めようとしたら、モータリゼーションでどの道路も工事ができない状態だというので、東京都下水道局は、安直に、世田谷の中小河川、北沢川や蛇崩川もそうですし、この烏山川など全部、下に下水本管を入れて、上を散歩道にしたという経緯があります。
    この烏山川緑道が昭和50年にはゴミ捨て場のようになってきたので、協議会として再生計画をまとめ、そこに“せせらぎ”をつく造る提案を行いました。この案が新聞に出ると、緑道沿いの住民が反対運動をおこしました。協議会の提案が反対されたので、反対派の人たちに呼びかけて話し合いを始めました。
  • 会議室だけではなく、時には木の下に集まってビールを飲みながら話し合うと、みんな本音で話をしてくれます。税金の無駄遣いだと反対していた人からは、本音は実は河川敷の部分を不法占拠しているとか、緑道は道路ではないけれども、裏口に玄関をつけてしまったなどの理由が聞こえてきました。そういうことを実際に解決してくれたのは、協議会ではなく、当時の街づくり課の係長さんが家を訪ねて具体的にそれらの問題の解決にあたってくれました。決して協議会だけの力ではないという事を、是非皆さんに知っていただきたいと思います。
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  • 烏山川緑道にほぼ並行して商店街があり、オイルショックの後に朝市を始めました。東京の商店街で朝市を始めたのはここが最初だと、NHKの「新日本紀行」が取り上げたので有名になりました。商店街に行かれるとわかりますが、幅4mないものすごく狭い道に、最盛期は肩が触れ合う程の人混みでした。
    ただ、残念な事に、緑道の改修ができると人の流れが変わってしまいました。これは、4時過ぎ、買い物の時間ですが、誰ひとり通らない。77軒あったお店が現在は18軒しか残っていません。これは、私たちのやり方がまずかった。商店街の人が集まれる時間に配慮しないで協議会の運営をしてきたという欠点がありました。いずれにしても、ドブ川の最適化といった部分最適化だけではなく、もう少しその影響を含めた広域的な観点からまちづくりを進めていただきたいということを希望しておきたいと思います。
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  • 三太通りについては、柳田さんが報告されたURが関わる以前から私たちは三太通りの拡幅について沿道会議で話し合いを続けてきています。
    道路事業を入れるという方針を区が立ててから38年間、今日来られた伊東課長が15人目の課長です。全部の課長がまちづくりの住民参加に理解があるわけではありません。時には変わるわけです。あるときの課長は、修復型で進めていては埒が明かない、道路事業を入れたいと言いました。道路事業を入れるのであれば、沿道会議できちんと説明しなさいと言ったら、その必要はない区の責任において行いますと説明会を開いた。ところが、説明には沿道の人は4人しか集まらない。参加者が少ないからもう一度開催しなさいと言ったら、何と言ったと思いますか。沿道の全戸にチラシを入れたけど、参加しないということは皆さんが了承しているからだと。ところが参加した4人が、大変だ、ここの道路が広がるぞということで反対の署名活動を始め、地権者の約8割が、区長あてに反対の署名を出しました。それで、もう一回説明会を開かせた。課長が説明したら、みんな反対だと騒ぎ出し課長が立ち往生するということがありました。
  • その後、区を抜きにして協議会が改めて沿道会議を呼びかけて、司会は井上さんに頼みました。なぜ井上さんに頼んだかというと、井上さんというのは、住民の意見をうまく整理してくださる。要するに、ファシリテーターとしての役割が一級品であると僕は見ています。それ以外に、三宿のご婦人たちから人気があり、井上さんが病気で入院したというと、女性だけで激励の寄せ書きをつくって持っていくというくらい信用されているわけです。僕は、まちづくりというものは、ファシリテーターにしても、行政にしても、協議会にしても、地域の人たちから信頼されない限り、進められないと思っています。
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  • 第1回の沿道会議の参加者は83名でした。開始するとお寿司屋の主人がいきなり立ち上がって、みんなが反対しているのになぜこんな会議を開くのか、あんたたちは行政の手先かとまで言われました。お寿司屋さんは、50m2の敷地に1階がお店で2階がお住まい。しかも角地のため三太通りを拡幅すると正面は3m引っ込まなければならない。横側は二項道路で2m引っ込まなければならない。お店が無くなりますから。反対するのは当たり前です。だけど、彼はその後、修復型で進める意味をわかってくれて、協議会のコアメンバーの一人として活動してくれました。そういう一人一人の生活の状況を考えていかなければまちづくりは進まないということを、ぜひご理解いただきたいと思います。
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  • これは国立小児病院の写真です。URが病院の土地を取得して、建物の取り壊しをしたら、土壌が水銀汚染していることがわかりました。東京都の基準では、土を1m入れ替えればいい。大成建設さんがそれをやられて、1年で終わるはずでした。ところが、終わった後、注射器や何かが落ちているのが見つかりました。近所に協議会のメンバーが住んでいますから、うるさいわけです。のぞきに行って、見つけてくるわけです。それで改めて再度やれと。最初の厚生省の担当課長は何だか傲慢で、基準どおりやればいいんだと言いましたが、その課長が替えられた後の課長は、住民の意見に基づいてやり直しを指示しました。写真は地面に穴がたくさん空いていますが、古代遺跡の発掘ではなくて、基礎の柱の穴まで全部もう一度大成建設さんにやらせました。いくらかかったかは言いませんが、かなり大きな費用を負担していただいたということがありました。
SOCIETY5.0時代への対応
  • 「society5.0」の意味を聞いても、今まで視察に来た人は誰も知りませんでした。時代区分にもいろいろな表現がありますが、1番目が狩猟採集時代の社会、2番目が農耕社会、3番目が工業社会、4番目が情報社会。これからはsociety5.0の社会、AIやロボット、IoTなどの新しい技術が活躍する時代で、当然、世の中は変わっていくだろうと思います。これは昨年の内閣府の第5期科学技術基本計画の中で使われた表現で、ちょっと格好をつけて採用したものです。では、具体的に世の中がどう変わっていくか、私にはとても想像がつきません。ぜひ、やわらかい頭でお考えいただきたいと思います。
  • 蒸気機関が発明された後、ラッダイト運動、日本では機械打ち壊し運動と呼んでいるものが起きました。しかし、実際に紡績機械が登場し、蒸気機関車が走ることが、どれだけ人間の豊かさを向上させてきたかということを考えると、これからの時代は、AIやIoTに単に反対する時代ではないと思います。もっともサイバーセキュリティやビッグデータの利用についてはいろいろと課題がありますが。
最後に
  • もう一つだけ。昨年URが出版した『密集市街地の防災と住環境整備』という本を送っていただき、全部読みました。2つの気がかりな点がありました。
    一つは単純で、「鳥の目・猫の目でまちづくりを考える」という表現があります。普通は、鳥の目・虫の目とすると思います。それを、虫の目ではなくてあえて猫の目と言ったのは、猫の特性をうまく考えていこうということなのかなと。これは筆者の人にぜひ教えていただきたい点です。なぜ猫の目と言われたのか。
  • もう一つ気がかりな点は重要なことで、今日の柳田さんの説明にもありましたが、URはバリューアップというコンセプトを出しています。これは、去年11月でしたか、URさん主催の密集市街地整備のシンポジウムに行きましたら、国土交通省の女性の住宅局長もこの表現を使っていました。
  • どういうことかと思っていろいろ調べました。そうしたら、森財団の理事長を務めている小林重敬さん、東京都市大学教授が盛んにこれを言っている。正直言って、僕は六本木のような方法を太子堂で展開されては困ると思っています。ここは庶民のまちです。庶民のまちであれば、暮らしをどうしていくかということを毎日考えて必死に生きている人ばかりです。
  • だとすれば、バリューアップではなくてクオリティアップということで、これからのまちづくりを考えていただきたいということを、ぜひ皆さんにお願いして、私の話を終わらせていただきます。

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