街に、ルネッサンス UR都市機構

街みちネット 第22回見学・交流会「太子堂のまちづくり その発想と事業」

これまでの活動の紹介

活動議事録

講演3「太子堂のまちづくり その発想と事業」

株式会社まちつくり研究所 代表取締役 井上 赫郎 氏
はじめに
  • 太子堂のまちづくりが具体的に始まったのは1980年ですから、もう38年という年月が経過しています。私も当初からずっと関わっていますが、だいぶうろ覚えのことも多いので、もし、幾つか間違ったことがあったら勘弁していただきたいと思います。 私からは少し総括的に、進めてきたまちづくりは一体どういうことだったのかということと、事業で取り組んだことを若干紹介したいと思います。
  • 各地区の街づくり計画のパンフレットをお配りしました。見開きの右側は地区計画の内容、左側は世田谷区街づくり条例に基づく地区街づくり計画の内容、それを併せたものが中央の計画図です。法的に担保されたものと条例のもの、2種類あります。
    この計画図を見ていただくと、よそにはあまりないような計画図になっていると思います。例えば、赤い点々で囲まれたものが結構たくさんあります。これらは通り抜け路の整備、行き止まりを解消して、2方向に避難できるようにしようというもので、2方向が行き止まりのものは、ぶつかった1区画地が空けば通り抜けられるというところを整備していこうというわけです。3カ所、どこかに行き着いたというところもあります。こういうことで、少し発想が違うかなと思っています。
まちづくり前史
  • 最初の整理をしていきたいと思います。
    このまちづくりに取り組む前、1975年に地方自治法が改正されました。その最も特徴的な、このまちづくりに直接かかわることとしては、都から区、特別区へ都市計画の権限が委譲されたということで、この年に区に都市計画課ができました。それ以前は係でした。住民に身近な自治体として、どういうまちづくりに取り組んだらいいかという模索が始まったかと思います。
    翌年、既成市街地再整備基本調査でしたか、環状七号線の内側の密集市街地を対象としてどのようなまちづくりが考えられるかという調査を行いました。私はまだ20代でしたが、この調査を受託して行いました。街みちネットの会長である高見澤先生にもご協力いただきました。
  • この報告書は、まちづくりノートパート1、あるいは、赤本という赤い表紙の本でしたが、「まちづくり」という言葉を正式に文書として使ったのはこれが初めてではないかと思っています。後の太子堂のまちづくりの発想は、この頃に出てきました。その後、1979~80年にかけて世田谷区の基本構想が提示されました。本日も参加されている林さんなどが担当していたかと思います。
    その基本計画の中では、太子堂の他に北沢と三宿があって、先行的なまちづくりを進めることをうたいました。それに基づいて太子堂のまちづくりがスタートしました。
  • その後、1982年に、世田谷区では街づくり条例——まちづくりというのは、実は平仮名で「まちづくり」と書くのか、漢字で「街づくり」と書くのか、ずいぶんもめました。世田谷区の議会でもそのことが論戦になったりしました。今、結論的に言うと、「街づくり」はハードなまちづくり、「まちづくり」はソフトも含めた全体のまちづくりという定義になっています。そういう形で始まりました。
    その街づくり条例は1982年、昭和57年に成立しました。今でこそ自治体にまちづくり条例はたくさんありますが、初めてつくったものです。全く同じ年の同じ時期に神戸市でまちづくり条例を検討していまして、当時は「西の神戸、東の世田谷」のような言い方をされたように記憶しています。
  • ちょうどその頃、都市計画法及び建築基準法の改正に伴って地区計画の制度が誕生しました。また、今は密集事業、住宅市街地総合整備事業という名前になっていますが、当時は木賃事業と呼んでいて、国の制度要綱に基づく助成事業が誕生しました。時期的にいろいろなことがそろってスタートしたように記憶しております。
太子堂まちづくりの4つの発想~(1)防災まちづくり
  • 大きく言うと、この地区のまちづくりは4つのことから位置づけられたと思っています。
    1つ目は防災まちづくりです。始まった当時は防災に対する危機感は今ほど高くありませんでしたが、環七以内の密集市街地を対象にするという一番大きな問題解決に苦慮されました。災害予防ということで、少し改善しなければいけないという話でした。そういう意味では、太子堂のまちづくりの防災性能の向上が主たる目標だったと思います。
  • 同時に、当時、墨田区の白鬚で防災拠点開発のようなものがあって、そこで防災拠点という考えがありましたが、あんなにお金をかけてすぐにはできない、小さなまちづくりでもかなわないからということで、防災から減災——最近は「減災」という言葉もよく使われますが、災害を防ぐことはできなくても、被害を少し減らすことはできるだろうということで、「減災」という発想で取り組みました。
  • 最初は、まちづくりと言ってもどういうことをするのかよくわからない、エンドレスに近い状況でしたので、何か達成目標のようなものを考えなければいけないという話がしばしばありました。まちづくりの総合危険度というものがありまして、そのランクを少し上げる必要があるのではないかということはありましたが、その危険度の算定方法が調査を行うたびに変わるので、あまり比較にならないということがあって、特に目標は定めず、世田谷区の平均的な市街地並みになればいいのではないかという議論からスタートしたことを覚えています。
  • 1995年、阪神・淡路大震災が起きた直後、東京都でもいろいろ議論がありまして、防災に対してきちんと取り組まなければいけないと指標が提起されました。不燃領域率という指標でした。それは、地区全体の面積に対して、道路や公園などのオープンスペースと、不燃建築物の敷地面積の総和が何%になるかを指標とするもので、今、防災について考える際の指標としては不燃領域率が一番使われています。
    太子堂は当初、木造建物が密集しており、道路も非常に狭く、公園等もなかったため、30%台だったと思います。これが3年前に約64%になり、現在はもう70%を超えたと言われています。達成目標70%と言われており、その数値には一応達したことになります。
  • 防災まちづくりは、評価項目に基づいて選ばれた、危険性が高い地域から取り組んでいきました。事業の制度としては、いわゆる密集事業を基本としてずっと続けてきました。最初の段階で、用地の取得を、何か種地のようなものを用意しないと、まちを動かすことができないという話がありまして、買えるところは買っていこうとなりました。土地を買うときに、特定目的で土地を買うわけにはいかない。いわゆる公有地拡大に関する法律で対応するのは土地開発公社や開発公社という環境、世田谷区にもそういう組織がありますが、そうではなくて、将来何に使うかはまだ決めていない土地も買おうということから、財団法人の都市整備公社を設立したという記憶があります。
    ですから、現実にそこで使ったのは最初のころだけで、そのままで密集事業の展開をしているということだったと思います。いずれにしても、防災を基調として考え、特に減災という発想に立つと、対応の仕方がいろいろ多様で、こう対応しなければ全部だめという話ではなくて、逃げ道があると別ですが、ちょっとした広場でもいろいろ役に立つと。こちらの道を広げられなくても、こっちの道が広がればいいだろうということをベースにしながら進めてきたということかなと思います。
太子堂まちづくりの4つの発想~(2)住民参加のまちづくり
  • 2つ目は、住民参加のまちづくりです。これは、本日は梅津さんがいらっしゃるので詳細な話をしていただきたいと思いますが、誰でも参加可能な協議会を設置しようということで、協議会方式が基本になり、原則は公募で行いました。こういうものは前例がなかったため、最初は準備会のようなものを立ち上げたりして、半年もかかりまして、会則一つを決めるのも大変でした。最近では会則を決めるのは1時間もあればできますが、半年かかったという記憶があります。
    特定多数の参加にもいろいろな形式があるかと思いますが、代表参加型の委員会などの方式と、不特定多数の説明会のような形で進めるやり方の中間的な方式として、協議会方式があったのだと思います。いつも不特定な方が集まっていると、話がいつもふりだしに戻ってしまうということがあるので、特定の人が代表参加できて少しずつ話を進めるという形で協議会方式にしました。この協議会方式は、世田谷区の街づくり条例で、協議会の認定ですとか、協議会の役割や要件などを定めました。
  • 協議会ではいろいろな議論をしましたが、道路を広げるということは結構利害にかかわる問題で、協議会の場で住民委員がほかの住民の土地や建物のことを発言するのは難しいということもあって、そういう場合の対応として、個別の協議をする場を協議会が用意するという考えをとりました。それは、先ほどの三太通りでありましたが、例えば道路に関係するなら、道路会議ということでその沿道の方の参加を求めて議論する。また、広場や公園については、パークのワークショップということでパークショップという言い方をしていましたが、広場や公園周辺の方の参加を求めて、管理を誰がするかなど話をし合いました。
    それから、四者会議——四者でなくてもいいのですが、例えば、国立小児病院跡地の開発のときは、協議会と周辺住民、行政である世田谷区、事業者であるURの四者で会議をするという、関係者会議といえばいいでしょうか、そういう方式をとる。そのように、ケースに応じていろいろな話し合いの場を設けました。
  • また、協議会では地域から理解を得るためのイベントをいろいろ開催しました。夏休みの最後の日曜日に、空地を拠点にした「きつねまつり」という祭を行いました。太子堂の子連れ狐をもじって「きつねまつり」、今はもうないのですが、10年以上続きました。コンサートを開いたり、フリーマーケットを開催したり。青空ミーティングといって、暑い中でみんなで話し合ってみたり、周辺のブロック塀を使って、全部写真を整理して、「みちギャラリー」といいましたが、そういうものを開いたり、いろいろなブリーフィングを行いました。
    一番おもしろかったのは、まちのオリエンテーリング大会です。ゼッケンをつけた子供たちがまちの要所要所にたどり着いて、問題を解いていきます。とにかく、まちが迷路のようなもので行き止まりが多くて、あそこに行くにはどのようにして行ったらいいかわからないまちでしたので、そういうことから、少しでも子供たちにまちの状況を理解してもらいたいという思いも込めた、ゲームでのオリエンテーリングを開催したことを覚えています。
  • また、3世代交流ということで、老人と子供たちを集めて古老に話を聞く会なども催してみたり、先程のオリエンテーリングに子供がたくさん参加したり。まち歩きなどでは、大人たちのグループと子供たちのグループがあって、大人のグループは、ルールが決まると、この辺は危険だ、この辺は密集しているなどを地図上に指摘される。子供たちは、そういうことは全く関係なく回りますので、ここはダンゴムシが多いとか、ここはカレーの匂いがするとか、そういう等身大の五感で感じ取ることで落としていく。その地図を出すと、わりあいと、まちというのはおもしろいなと思いました。防災の視点で見えるとこういうことが言えるだろうけど、普通に生活をしていると、こういう見方もあるのかなと。
  • それから、よくある参加型の3点セットというか、見学会、勉強会、点検会を何度も繰り返して行いました。点検会は何度か行いました。協議会の人を中心に他の市民の方も加わって、緑の点検会というものを行いました。これは、協議会のメンバーに植木屋さんがいて、植木屋さんが先生になって、このビルはどうだ、桜はこうだというお話を伺いました。
    それから、二項道路点検会では、きちんと後退しているかどうかをメジャーで計測しながら、ブロック塀には鉄筋探知機を使ってきちんと鉄筋が入っているかどうかを確認したり、見て回りましました。
    できるだけ多くの人に関心を持ってもらうことと、こういう住民参加のまちづくりでは、難しい話ばかりしていてもあきてしまうという面もあるので、いろいろな提案を考える、いわゆるワークショップの方式を使いました。今でこそワークショップは一般的な言葉になりましたが、この前、インターネットで「ワークショップ」と検索したら、太子堂が走りと言われていると書いてあったのでびっくりしました。私は担当していても当時ワークショップという言葉は知らなかったし、使わなかったのですが、結果的には、すごくおもしろかったと思っています。できるだけ楽しく話をするとか、意見や提案を出しやすくするということ、これはなかなか重要です。
  • これは古いきつねまつりの写真です。多くの人が集まってきて賑やかなまちでした。
太子堂まちづくりの4つの発想~(3)修復型まちづくり
  • 3つ目は、先ほどの防災まちづくりの発想に近いのですが、修復型まちづくりということで、まちの歴史や文化、生活を尊重し、あまりまちの構造を変えないで改善を積み重ねていく。先ほど言った「減災」の発想だからということです。ただ、これは大変に時間がかかることです。
    この発想は、住民の生活の変化の時期にまちづくりへ誘導するもので、移転や建て替え、世代交代、転勤など、まちの人々が徐々に替わる時期がありますので、その時期に少しずつ改善していくことかと思っています。一定の計画がないと場当たり的になるということで、地区街づくり計画・地区計画を一つの指針としています。やはり時間の管理は重要で、修復型というのは、思いつきで何かしていけばいいということではなくて、将来へどのようにつないでいくのかという発想が大事だと思います。
  • それから、長期化、弾力的な運営に耐えられるかということで、先ほどの都市整備公社を立ち上げたり、密集事業の議論をしたり、それだけ長い時間進めて来られたというのは、世田谷区が、太子堂の住民の方々ががんばったのかなと思います。コンサルも少し偉かったですけどね。
  • これも古い修復型まちづくりの図面ですが、徐々に狭い道路が拡大していって将来的に拡幅されてつながるという発想です。
太子堂まちづくりの4つの発想~(4)モデル(アクションエリア)型まちづくり
  • 4つ目は、モデル(アクションエリア)型のまちづくりです。
    これは実験的な事業、先行的な事業という位置づけで、他地区への波及を期待するものです。基本計画の中で先行事業という位置づけで当時は進めたということですが、その根拠として、街づくり条例において街づくり推進地区の指定を受けました。これは都議会の議決が必要です。やはり特定の地区に一定の公共投資が行われる、あるいは、職員を配置することの根拠も必要だろうということで、議会の議決を経なければなりませんでした。その他にも関係する計画で位置づけされました。
  • 当初、町丁目単位で6項目評価で地区を選定し、先ほどの太子堂二・三丁目と北沢三・四丁目が選ばれました。さらに、全世帯アンケートを大学が行い、その中で防災の危機意識が高い町丁目、都市基盤の整備状況、人口密度などの項目で指標化して、問題が大きいところとして三宿が挙がってきました。
    他地区への波及については、もう少し方法を工夫してできなかったかなど反省の視点も含みますが、まずは隣接する三宿地区へ波及しました。太子堂三丁目の少し後に三宿一丁目で計画に上げることが決定しました。密集市街地の問題だけに留まらず、結果的には現在104地区という大変多くの地区で地区街づくり計画が策定されています。
  • これは少し前の図ですが、世田谷区内でこれだけいろいろな地区で計画が策定されています。駅周辺のまちづくりや住環境保全のまちづくりという程度のものもありますが、このように波及しています。
太子堂まちづくり事業の紹介
  • 「まちづくり事業実績マップ」は、今まで38年間手がけてきたことを地図に落としたものです。緑色が公園や広場、緑道等が関係したものです。小さな広場がたくさんあり、中央付近に烏山川緑道があります。昔は烏山川という川だったのですが、現在は下水管が地下にあり、上部を緑道として再生したものです。
    青色が、不燃化を含めて、いわゆる建替え事業で、二種事業の助成等を受けながら建て替えた所です。
    オレンジ色は道路関係で、道路の拡幅整備など。黄色はまちづくり事業用地です。
    このように事業の実績が太子堂二丁目・三丁目に点在していますが、この一つ一つの整備については結構厄介で、いろいろすったもんだしながらこのような形になりました。
  • 大きく、「みちづくり」、「ひろばづくり」、「いえづくり」、「しくみづくり」という言葉でまとめています。道路交通の問題、広場・公園・緑道の問題、建築物の不燃化や耐震化、地区計画等や話し合いルール、このような4点でまとめました。
太子堂まちづくり事業~(1)みちづくり
  • 太子堂の道路延長の7割以上は4m未満のいわゆる狭隘道路でした。それも並大抵の狭隘ではなく、手を伸ばすとぶつかるような道路が大半でした。そういうところでは、6m道路というと目が覚めるような広さなので、まず4mに、建築基準法42条2項の道路まで後退させるということで、9割程度が何らかの形で後退しています。
  • 通り抜け路整備、行き止まり路解消は、先ほど言ったようなことです。
    また、都市基盤の整備がなされていないので、曲がりくねったり、クランク状だったり、ずれた交差点だったり、そういう場所の改良を進めてきました。
    それから、細街路の拡幅整備がされました。
  • これは取り組んできたことの一例です。
  • 公務員住宅があった敷地の端に、こういう桜の木がたくさんありまして、その部分だけ用地を買い取り、桜があるため道路にはならないので、「通り広場」という変な名前ですが、整備しました。これも関係者で何度も話し合いました。
  • クランク解消の例です。
太子堂まちづくり事業~(2)ひろばづくり
  • ポケット広場(まちかど広場)は、小さくても防災に有効であるということで広場をつくり、防火水槽や防災倉庫を設置しました。最初はとんぼ広場というところから始まったのですが、自主管理、手作り、土のある広場、これを基本にみんなでパークショップと言われるワークショップで計画されました。
    烏山川緑道の再生では、高台にある太子堂小学校のプールの水を引きまして、せせらぎをつくりました。蛇行していますが、消防車の走行も可能な8mあります。子供たちが絵陶板にいろいろな絵を描いて舗装をしています。これは3年間に及ぶ緑道会議で、だいぶ議論しました。
    この緑道に面している一軒一軒の家からは、直接緑道に出られるようになっていて、出入口が設けられています。
  • とんぼ広場です。一時ここに、年末になると100人くらい集まって餅つきをしました。
  • アメンボ広場という小さな広場です。
  • 烏山川緑道です。左が従前で、右が整備後です。昔、川があったけれども、ドブ川のようになってしまったので暗渠化し、下に下水管が通っています。ただ、殺風景な場所になっていて、もう少しきれいにしようということで、当時の国土庁に、防災緑道の整備事業の適用を受けて整備しました。
太子堂まちづくり事業~(3)いえづくり
  • 建築物の不燃化や耐震化は、時期によって違いますが、たくさんの不燃化促進助成制度があって、渋谷から近いということもあり、まちが更新したことによりだいぶ進みました。
    共同化はあまり上手く進みませんでしたが、1カ所で行いました。また、協調化は、建物を建てる場合、同じような建物を並べるというものもつくりました。
    また、不燃化特区、防災防火規制の誘導を行ったりして、不燃化を進めました。
  • 国立小児病院跡地開発では、避難スペースの確保、防災施設の設置等で、広域避難場所になりました。この跡地を中心に、住宅供給公社や、隣接する三宿の旧法務省の研修所跡地、多聞小学校などと連担させて広域避難場所の指定を数年前に受けました。
  • これは不燃化特区の地図です。
太子堂まちづくり事業~(4)しくみづくり
  • 地区計画が1992年に制定されて、高いブロック塀を制限し、高さや敷地規模(最少60m2)を制限しました。高さについては、建築紛争が多かった場所であるということもあって、高さの制限として、たしか、15、20、25という3段階で設定しました。 それから、街づくり条例に基づく地区街づくり計画は3回立てました。最初が1985年。それから、2008年に、阪神・淡路大震災を契機に、最初の計画のわりに見通しが全然つかないという話もあって、実情に合った計画に改正しました。つい最近の2016年には広域避難場所指定に基づいて改正しました。広域避難場所は、国立小児病院跡地のほかにもいくつかの場所が整備されてきたので、合わせて広域避難場所となりました。

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