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街みちネット 第21回見学・交流会「神田における現代版家守事業の実践」

これまでの活動の紹介

活動議事録

講演3「神田における現代版家守事業の実践」

株式会社POD 共同代表 橘 昌邦 氏
自己紹介
  • 「家守」という言葉、もしかするとこの中にも、お聞きになった方はいらっしゃるかもしれません。リノベーションスクールを全国で展開している、アフタヌーンソサエティの清水さんは私の師匠で、私は清水さんとアフタヌーンソサエティで15年間一緒に仕事をしていました。そこでは現場は、ほぼ私一人でやっていました。本日は、その時代から今に至るまでのお話しさせていただきます。
  • では、簡単に自己紹介をさせていただきます。業務領域ですが、私どもの会社は、「まち」・「不動産」・「商い」、単体での仕事だけでなく、これらの領域が重なった部分もやらせていただいています。PODという会社は、2人で立ち上げた会社です。立ち上げたのは2010年の3月。今年でまる7年を過ぎて8年目に入ります。
  • パートナーの神河は、こてこてのデベロッパー畑を歩んできており、森ビルでは、最年少で開発プロジェクトマネージャーに任命され、六本木ヒルズの運営、立ち上げを行い、現場で陣頭指揮をとっていた人物で、その後は上場のデベロッパー会社に入り事業開発部門の開発・経営等を実施していました。
    私は、どちらかというと行政、あるいは商工会議所等々のお手伝いを行い、もう少し地べたの方でまちづくりを行っていました。変わったところでは、東京理科大の非常勤講師やアカデミーヒルズという森ビルが取り組んでいる不動産のプロフェッショナルスクールに関わっていました。
  • 過疎地から都心繁華街まで、それから屋台から大規模開発までと、多様な領域ですが、私自身のスタートは過疎地の再生でした。前職の主だったものでは、歌舞伎町の家守事業、神田から日本橋にかけての家守事業、築地場外市場です。今、豊洲の移転問題で揺れていますが、その残されてしまう側の場外市場のお手伝いをしていました。
  • 過疎地ですと、ハード及びソフト面についても行っています。また都心では歌舞伎町の家守事業や吉本興業が古い小学校をリノベーションした吉本興業東京本部移転プロジェクトなど、これらの全ての交渉やまとめた後の建設の仕事もコンサルとして行っていました。
    本日お話しする「REN BASE」をはじめ、ハード面では大きいところですと、中野セントラルパークのブランディングと、ブランディング部分の運営も弊社で行っています。
  • その他では、地域イベント、エリアマネジメントを行っています。エリアマネジメントは、歌舞伎町タウンマネージメントや築地食のまちづくり協議会などです。この近所ですと神田淡路町にある複合施設「ワテラス」のエリアマネジメントの立ち上げも行っています。また、二子玉川ライズの基本構想も弊社で行っています。
  • 行政関係では、横濱まちづくりラボという横浜市庁舎の移転に伴う公共施設の連鎖型の再整備のシナリオ、それを民間プロジェクトでどう立ち上げていくかということをオープンイノベーション型で検討する場の運営をしています。
  • また、実際に自主事業として不動産運営のようなことも行っています。
まちづくりの基本
  • 弊社の基本は、弊社というより私の基本になりますが、まちづくりに携わる際に必ず自分自身に問うことが、誰のためなのか、何のためなのかという点で、毎度毎度忘れないようにしながら進めています。雇用の創出、賑わいの創出、あるいは空き店舗解消など、目的は様々ありますが、人や地域状況によって異なります。ここを最初にしっかり認識しておかないと、手法が目的になってしまうことがあるので気を付けているところです。
  • 最近は、「まちづくりとは何なのか」ということを様々な地域の方たちにお話しする機会がよくありますが、弊社が他社からバトンタッチされて手掛けることになった地域もあります。前任の方がハード面ばかりに目を向けてしまい、自分たちのことを何も考えてくれないと、商業者の方々が弊社に依頼をして来るケースです。
  • なぜハードを整備するのかといったら、住環境や商環境、あるいは業務の環境を向上し維持する。最終的には資産価値、全体ではエリア価値を向上し、維持していくためです。単にハードだけというよりも、そのハードの先にある、こういったところを求めているのがまちづくりの本質であり、これらを実現するハードとソフトの手段がまちづくりであると説明しました。
    ただ、まちの人々が幸せになることが、最後になくてはいけないと思っています。いくらいいハード開発をしても、そこにお住みの方が誰もいなくなってしまっては、果たしてそれはいいまちづくりであるのかと私は少し悩みます。
  • では、商環境・業務環境向上の基本は何でしょう。基本的には、既存のまちの場合、だんだん向上されてきたところで新たな事業者、新たな事業の創出です。新たな事業とは何かというと、インキュベーションとか、他から人を呼び込もうといった話がありますが、今住んでいる方々が幸せになるという話を考えると、今商売をされている方々の商売をどうにかするという部分も大事だと思います。そういう意味では、新たな事業者も必要ですし、今いる事業者の方々の事業を創出していくことが基本だと思います。
家守型のまちづくりのきっかけ
  • 前職で過疎地再生を行っているときから、私は家守の原型を認識し、家守という職能の必要性を感じていました。それを最初に感じたプロジェクトは、熊本の山奥の秘境と呼ばれる場所で、箱物行政でできた建物を黒字に立ち上げようという、赤字にしてしまったら財政破綻するというプロジェクトで、アフタヌーンソサエティで最初に担当したプロジェクトです。これは本当に地元の素人ばかりで運営しようとした無謀な計画というか、そもそも計画すらなかったものです。
  • 本質的な問題というのは、商いの素人ばかりだったことと、商いの基本がなかったことでした。逆に言えば、素人でも商いの基本をきちんと教えてあげられれば、ある程度売り上げを立てることができました。それに気づいたのがこの熊本プロジェクトです。同じような課題を全国の商店街も抱えていると思います。
  • 奥会津でも同じようなことを行っています。全国の自治体がやっている民泊や地域文化、生活工芸といった取組みを昭和40年代から行っている地域です。ただ、文化としては専門家の方々から高い評価を得たのですが、当初から目指していたその先の経済までは繋げられなかった。そのことがどうしても悔しいということで、当時の町長から頼まれ、お手伝いしました。このように全国でアートを起点にしたまちづくりをやっていますけれども、やっぱり最終的には経済に結びつけていく、そこが大事だと思います。
  • 過疎地なので当たり前なのですが、地域に未低利用空間というのが大量にありました。そこで、ここをまるまるコンバージョンするのではなく、軒先の辺から少し変えること、あるいは建築的に手を入れなくてもいいようなことで、家々、あるいは古民家をギャラリーや店舗に変え、地域文化や生活工芸を、そこでクローズアップしていきました。結果、小商いの創出ができ、観光客、収入増があったということで、このプロジェクトはその年の「毎日・地方自治大賞」を頂きました。
  • これは小さなギャラリーです。地元の方が200万円もかけて、いきなりリノベーションをして、自分の家の前部をギャラリーにしました。こういった一人一人の動きに周囲の人たちもかなり触発され、広がっていき、流れがおこってまち全体がやり出しました。
  • このまちで気づいたことは、豊かな生活文化に惹かれて移住する人々が実は存在し、全国的に潜在的な移住者候補は多数いるということでした。先程お話した熊本でも、全国からスタッフを募集したところ、かなり手が挙がりました。有名な施設のトップに近い方も実際に応募されてきました。
  • この三島町というところも、同じような形で移住したいという人がいましたが、移住者候補に情報が届いていないという問題が第一にありました。また、受け皿となる空き屋を探したくても借り受けをするためのサポート機能がありませんし、受け皿もただの空き家なので機能が不十分です。やはり移住者候補が使うためには、彼らに合わせたような形にする必要があると思います。
  • また、タウンページを見て愕然としたのですが、不動産業という業種がありませんでした。三島町に関しては、人口が2,000人ぐらいなので、不動産業はそもそも成り立たない。不動産屋がないので、ここの町に住みたいという人は、行政にまず行くのですが、行政は不動産屋をやっているわけではないので、持ち主を紹介して、あとは自分でお願いしますということになります。そうすると、例えば何か生活のルールを間違えてまちの人との関係が悪くなってしまうと、もうそこには住み続けられなくなるということが起こってしまう。不動産仲介も含めて、そういったところをちゃんとサポートする機能がすごく大事だなということを感じました。これは多分「家守」と全く変わらないと思います。その後呼ばれた神田地域にも、この地域と同じようなことが起こっていました。
神田における現代版家守事業の実践~まちの課題と原因~
  • 2002年当時の神田は、ビルの老朽化と企業の流出等による空室増が相当深刻化していました。翌年に起こる、「2003年問題」という都心で大型のオフィスビルがどんどんできて、玉突き状態でテナントが移動していくという状況の、前触れの年でした。この神田地域もかなりの数の大手企業が移動して、それに伴って関連企業も抜けてしまい中小ビルが相当数空いていました。
  • ただ、神田はほかと少し違う特徴がありました。我々は中抜けと呼んでいますが、店舗として利用されいている1階やもともと持ち主が住んでいることが多い最上階は埋まっていますが、オフィスとして貸しているビルの真ん中だけ空いてしまうという状況でした。これにより昼間人口が減っていくと商店街も元気がなくなっていきます。それと同時に地場産業、例えばこの地域ですと印刷業や出版業、東神田エリアでは繊維問屋等がありますが、こういう産業自体が実は旧態依然とした商い形態を維持しており、アップトゥデートされていなかったので、これら地場産業も衰退していきました。
  • 左の写真は、地元の不動産会社が当時のビル空室を地図にプロットしたものですが、ほぼ真っ赤になっています。東神田のエリアはさらに深刻でした。この辺りは大手のデパート型の問屋が多かったのですが、商売を辞める問屋も多く、また物流の変化により倉庫として使っていたスペースが使われないままになっていたりして、ビルの空洞化が進んでいきました。ビルは次々とそんな具合で、本当に空室がいっぱい出ていたことを覚えています。ただ、場所柄交通利便性は高いので、空いてしまったビルがマンションに建変わるということも始まっていました。
  • こういうときにまず考えなくてはいけないのは、なぜこの様な事態が起きてしまったのかという、そもそもの原因です。原因は単純明快なのですが、そもそも空間や賃料の条件が使用者のニーズに合っていなかった。当時の神田地域の皆さんはバブルのころにかなりいい思いをしており、不動産オーナーはいずれその頃の状況にまた戻るだろうと思っていたので、募集賃料を下げなかった。その結果、実質の契約賃料とはかなりの差が出ていました。
  • また、神田駅の周辺はかなり初期段階から都市化が進んだことで、古いペンシルビルが非常に多く、エレベーターがないビルや電気設備等の設備が不十分なビルが多くありました。ですから、堅い法人ほどなかなか使いづらい状況になっていたのですが、元々、かなり堅い法人ばかり入っていたエリアだったため、それ以外はお客さんではないとオーナーは思っていました。しかも、自分が不動産経営者とだという認識をもたれている方はあまりいなく、そもそも商売をしていたところをたまたまビル化して、そのビルの収入がもともとの商売より多いので不動産業をやっているという方が意外と多く、そういう方はどういった不動産経営をしているかといえば、地元の不動産屋にポーンと丸投げして、あとはお任せといった状況でした。
  • ところが、これはあまり大きな声で言えませんが、仲介料というのは賃料ベースなので賃料が下がった安い古いビルを出すと、手間は変わらないので、地元の不動産屋にとってあまりメリットがありません。それよりも、定期的に管理料等が入ってくるため、今だから言えますが、あまり熱心に不動産の仲介をやっていなかったという状況もありました。そういったところを見誤っていると、根本的な問題点を改善しないまま、上辺のところだけでやる話になるためこんな話をしています。
神田における現代版家守事業の実践~千代田SOHOまちづくり構想~
  • そこで考え出したのが、「千代田SOHOまちづくり構想」と通称言われているものです。これは「千代田区の財団法人「まちみらい千代田」の前身である「千代田区まちづくり推進公社」にて、エリアマネジメントで有名な小林重敬先生が座長を務め、公民連携で有名な東洋大学の根本さん等が委員のメンバーになって検討した構想です。
  • ただ、メンバーに不動産系の業種の方が足りなく、特に我々のように少しベタベタなところに足を突っ込んでプロジェクト化ができる人が必要だということで、根本さんに紹介され、2002年に手弁当で加わりました。
    この構想の内容ですが、神田には受け皿となるような未低利用空間が大量にあったので、そこを受け皿にし、地域の産業にプラスになるような方々を誘致して、産業と結びつけることで地域の産業も元気にし、ビルの空室も埋めるといった、かなり虫のいい一挙両得の構想でした。
  • 中抜け問題で空室を持つビルが多く存在していた中、それらの空室をまとめてあたかも一つのオフィスビルの代に運用できないかという話になりました。しかし、そのような運営ができる不動産屋はいませんでした。ビル丸ごとを管理するケースはあります。しかし、周辺のビル一室一室が空いている状況をまとめて何か面倒を見られるかといったら、それは手間でしかないため、不動産屋はまずやりません。また、商売のサポートをするようなことも不動産屋はできませんでした。
  • そこで、そういう職能が必要ということになり検討を進めている際に、検討メンバーであった千代田区職員の小藤田さんから、江戸時代に「家守」という職業があったという話が出てきました。江戸時代の神田は長屋が非常に多く、そこに住んでいる人も多かった。これを管理する商売が「家守」でした。この「家守」という商売は長屋のオーナーではなく、実は長屋の多くは不在地主が所有していて、そういった方々に代わって不動産を管理運営したのが「家守」でした。また、「家守」は落語で言う「大家」のことで、落語に出てくるように店子の面倒を見たり、五人組という組織の一員としてまちの差配までやっていました。今風に言うと、エリアマネジメントとプロパティマネジメントとインキュベーションマネジメント、この3つを同時にやる、そんな職能というのが「家守」でした。これを復活させようというのが「千代田SOHOまちづくり構想」の流れです。
  • 神田のまちは、一つ一つの街区を見ていくととてもコンパクトで、駅前には飲食店もあれば様々なサービス業もあります。例えば大規模なオフィスビルで複数階に入居するテナントが、自社のオフィスの別の階の会議室に行く時間やご飯を食べに行く時間を考えると、神田エリアではほかのビルにわざわざ出て歩いていっても、もっと短い時間で済みます。途中でご飯を食べることも可能で、最新の大規模オフィスビルよりもアメニティはよほど高いのではと考えました。
  • そこで、徒歩圏でビルをバーチャル的に回り、その中心に拠点を置いてまちでシェアし、それらを一体のバーチャルなオフィスとして運用するという考え方が出てきました。
    通常のシェアオフィスというのは、利用者がシェアするものですが、本日ご案内する「REN BASE」の特徴の一つは、まちでシェアするということで、その発想は、もともと長屋も同じようなものだと思います。
  • まちづくりというのは目標がすごく大事で、それがないと行き先がなく大海原をさまようようなことになってしまうので、我々なりに仮説を立てました。ただし、私はまちづくりにおいて、必ずしもみんなで共有する必要はないと思っています。
    神田の場合にはクリエイティブクラスの誘致と定着、それから集積というのを一つの目標にしました。それは、先程お伝えした「地域の産業をどうにかする」という意識がすごく強かったからです。その結果、彼らを起点に地域再生の流れを創出して、地場産業の創出や更新を行い、未低利用空間を解消することで最終的にはエリア価値を向上できると考えました。
  • クリエイティブクラスと今だから書いていますが、当時は私も、リチャード・フロリダの「クリエイティブ資本論」等、経済の方の流れは把握しておらず、クリエイティブクラスという言葉は用いていませんでしたが、想定したのはクリエイティブそのものでした。ただクリエイターだけ集めても商売にならないということはすごく感じていましたので、意図的に商売になるような相性のいい人たちを集めようと考えてました。後にリチャード・フロリダの話を知り気づいたのですが、それはクリエイティブクラスの理論に近い発想だったと思います。
  • クリエイティブクラスを起点に段階的にまちを変えていくというシナリオを描きましたが、これ自身もあまり表に出していません。この理由は後でお話ししたいと思いますが、やはりこのような流れに加わっていくる方々が自分事と感じ自分が主役だと思うぐらいではないと、やはり持続しない。一番格好悪いのは、まちづくりコンサルが旗を振り、「まちづくりするぞ」とアーティストを集めるで、そのようなやり方では「自分が」、「俺が」、と思うようなアーティストは多分来ないでしょう。だから、そういうやり方ではなく、我々は一歩後ろに引きながら、主役になっていただく方々にに誘われて来たことを忘れ、自分がこのまちを見つけて来たと思うぐらいまで、のめり込んでいただくというのが大事なことだと思います。 そこまでいくと、彼らは本気でまちに定着しいろんなことを始めますので、そういうシナリオを書いて進めていました。
神田における現代版家守事業の実践~まちづくり拠点の整備~
  • 何か活動を進めるのには、拠点というのはすごく大事になります。千代田SOHOまちづくり構想の検討の中で、リーディングプロジェクトを幾つか検討して欲しいという話になり、ペンシルビル、あるいは少し大きめのビルを検討した中で、一番大きなビルで考えたプロジェクトがまちづくり拠点の整備でした。
    神田駅徒歩約2分、当時築48年、それからもう10年以上経っていますので、今では築60年近いビルです。その2階ワンフロアを使ってシェアオフィスをつくりました。
  • 特徴的なのがこの共用部です。通常のオフィスビルだと、レンタブル比を考えたらこんなに共用部をとるのはおかしいのですが、周辺のビルと連携しながらここを拠点としてシェアするという考えで、ここのビルを利用している人たちだけでなく、ほかの人達が使うことも想定しました。その結果、ここで様々なイベントが行われるようになりました。
  • 本日ご案内するのは、2代目「REN BASE」で、初代はなくなってしまいました。初代は当時のビルオーナーが家守の話を聞いて賛同いただき、始まったのですが、代替わりされた際に初めの話が全く引き継がれず、結果追い出されてしまったという経緯があります。このとき既に私は前職のアフタヌーンソサエティを退職していましたが、私の師匠である清水さんのアフタヌーンソサエティはコンバージョンした「アーツ千代田3331」に移りました。
  • 本日ご案内する「REN BASE」は、稼働が100%に近い状態で、作業をしている方が多いため現地であまり説明できませんので、こちらでポイントをご説明します。
    若干まちづくりの流れから脱線しますけれども、コンバージョン事業をする際に大事な事は何かというと、お金をかけ過ぎてはいけないということです。お金をかけ過ぎてしまうと賃料で回収するしかないのですが、結局お金をかけただけ賃料が上がり、周辺の新築ビルと変わらなくなってしまう。その結果競争力がほとんどなくなってしまいます。
  • それでは、お金をかけなかったら、誰が入居するのか。クリエイティブクラス、特にクリエイターと呼ばれる人たちといろいろ話をしていると、いわゆるオフィスって空間は格好悪いよねという話が出てきました。むしろ、汚いオフィスでも自由に使わせてくれるなら、そのほうが俺たちは価値を感じると言うのです。それならば、無理に原状復帰する必要はなく、センスさえよければ、高度な装備をつくる必要もないだろうと考えました。ただし、これにはターゲットを絞る必要がありました。
  • 当初から産業のインキュベートを視野に入れていたのでベンチャーやIT系も対象に検討しましたが、この方々は、その性格上1カ所に長くいる方々ではありません。最近もGoogleがいきなり六本木から渋谷に移転するなんて発表しましたが、そんな具合に、大きいところでもそうですし、ベンチャーに至っては、業務を拡大していくことがミッションなので、1カ所にずっといるベンチャーだと、事業上どうかという事にもなります。そういう意味で言うと、まちづくり的にも相応しくありません。
  • また、この2つの業種はセキュリティの問題を気にしますから、彼らが望むようなクオリティのプランにしていくと、どんどんお金かかってしまいます。結果、最初に話したように賃料が上がるということで、ここは思い切って、「REN BASE」の場合は、そういう方々はターゲットから外して、クリエイターを中心としたクリエイティブクラス向けにコンバートしました。
  • 涙ぐましいところでは、当時は無線LANもあまり普及していない頃だったので、LANケーブルをあちこちの壁沿いに露出して這わせるといったこともしました。ただ、あまりに線が見苦しかったため、塩ビの雨樋を買い、雨樋を半分に切って線に被せ、隠すといったこともしました。そんな具合で、なるべく金をかけないようにして、デザインフィーを入れても坪7万ぐらいに済ませました。
  • 当時とても悩んだことがあります。中小のゼネコンに施工をお願いしたのですが、我々が想定しているよりもかなり頑丈なものができてしまいました。こういうシェアオフィスは、順調にいけばテナントが育っていきますから、追加の床が必要になったらブースの壁を取り払って、2つ一緒に使う、あるいは3つ一緒に使うという話が出てきます。そういうことを想定して、なるべく壁は軽くして外せるようにして欲しいと伝えたのですが、竣工検査の怖さが頭から離れないためかか、とてもしっかりしたものになってしまいました。
  • 2代目である「REN BASE」も同じ発想です。現在は、ブースを物理的に繋げているテナントが3組、物理的ではなく複数入居は4組もあり、多いところは3ブースを使用しています。そのぐらい順調に育っています。3ブース分をシェアオフィスで払うと結構高くなるので、そのぐらいになったら外に行けばいいのにと思いますが、意外と皆さん入居し続けいて、退去されたテナントは確か2~3組ぐらいで、他はずっと入居しているテナントばかりです。
神田における現代版家守事業の実践~アート・都市イベントの実施~
  • 拠点ができたからといって、情報が届かないと誰も気がつかないし来てもくれません。そこで考えたのが、クリエイティブクラスを呼び込むためのアート・都市イベントの実施です。立ち上げ時点では、東京デザイナーズ・セントラル・イースト、翌年からはセントラル・イースト・トーキョー、通称「CET」と呼ばれているイベントです。
  • 実は当初、地元の事業者が千代田区と組んでシェアオフィス整備、運営することになっており、アフタヌーンソサエティはコンサルタントの立場でおりました。ところが、いろいろな事情でこの事業者がいなくなり、シェアオフィスの立上げ、運営はアフタヌーンソサエティが自腹を切ってやる、純粋に民間100%のプロジェクトになりました。
  • 公的なお金が入ってくるわけでもなく、スポンサーがいるわけでもなくて、無謀にも手弁当で始めました。そのプロジェクトの延長として始めたこのイベントも、同じように公的資金ももらえなければスポンサーもおらず、そんな中無謀にも始めてしまったのですが、驚いたことに2004、2005とどんどん拡大していき、CET05のときには、会場数150カ所という巨大なイベントに化けていました。また、徐々に民間のスポンサーも増えいきました。ただ、それでも人件費は私も含め誰一人もらえておらず、完全に自分たちが好き勝手に始め、続けた希有なイベントです。
  • イベントの内容は、地域の未低利用空間を短期間借り受け、そこにアーティストに入ってもらい創作活動を行ってもらうという山奥でやったのと同じようなまち全体をギャラリー化することを都心部でやりました。変わったところでは、東神田にあります一橋高校の裏庭というか、空堀の様なところ、国交省と交渉した靖国通りの地下道、JRと交渉したJRのコンコースなども会場として利用しました。このように、ありとあらゆる空間を、無料、もしくは1万円で貸してくれと、とにかく泣きついて、かき集めたのがこのイベントです。
  • その中で一番辛かったとことは、アーティストが地元の方から「エイリアン」と呼ばれていたことです。何を起こすかわからないので、危ないと思われていたのです。私は不動産の担当ディレクターでしたから、一番辛い思いをしました。
  • イベントには裏ミッションがありました。単にアートイベントをやりたいという話ではありません。クリエイターにはほとんど話していませんが、我々が仕掛けたのは、不動産オーナーや地域産業関係者に、新たなテナント候補、あるいは地域産業の担い手を知ってもらい、リノベーションの可能性や新たなビジネスのヒントを感じてもらいたいという意図がありました。
  • 例えばエイリアンと呼ばれていたような方だと、多分神田では入居審査が通らない。でも、そういう方々は全然怖くないよ、会ってみたらいい人でしょうということを分かっていただく、そんなところを意図しながら、このイベントを行いました。それから、アーティストがそれぞれの空間を自由に使うので、そういう意味では、暫定的にリノベーションを体験してもらう。そんな場にもなっています。
    ただし、このことをクリエイターに最初にそういうイベントだと話してしまっては、やはり面白くなくなってしまいますから、仕掛ける側と、主役として舞台に乗ってもらう側では、少し分けて考えて進めています。
  • また、単にアートイベントをやるのではなく、最終的には、クリエイターがご飯を食べられるようにしなくてはいけないし、その先に産業と結びつけた事例もあります。例えば、出版や印刷業、変わったところでは、クリエイターと地元の老舗企業、しかも老舗企業2社ずつが組み合わさってできた商品などもあります。この商品は、老舗鞄店とバケツ屋さんがコラボレーションした「トートバケツ」というものです。また、こちらの商品は箒屋さんと傘屋さんがコラボレーションしたもので、お掃除をモチーフにしたマークをつくり、ブランド名を「掃印」といいます。こちらは結構高くても売れています。
  • 地域にこういった動きをつくるには、最初にエイリアンだと思われている人がいきなり入ってくると、拒絶反応を起こしますので、最初に行なったのが路上のお見合いイベントでした。簡単に言うと、路上でのバーベキューパーティーです。やはり真面目にやってしまうと、皆さん構えてしまいますから、利害関係を超えて、まずは楽しむ、同じような共同作業をしてもらうというのがすごく大事だと思っています。
  • 東神田で新しいマンションができる度に、町会の青年部が中心になってバーベキューを企画して、新しく来た住民を呼び込んでは、耳元でこっそりと、災害等が起こった際に物資が届いたことを町会に入っていないと誰が誰だかわからないので届けられない、と伝えているという話を聞きました。それでお見合いイベントを行いました。最初のうちは、見合ってしまい交わらなかったのですが、段々馴染んできまして、女子大生にうんちくを語る親父や、その親父に熱心に自分の作品を見せるクリエイターが出てきました。
  • 地元の方からは「何をやりたいかよくわからないけど、真面目なのだけはわかった」と言われ、応援してくれるようになり、我々が知らないところで、準備段階から差し入れをしてくれるということも起こりました。
  • それに気を良くして、このエリアに住みたいと思うクリエイターや実際に住んだクリエイター、それから、お手伝いに来ていた若者達もいました。
神田における現代版家守事業の実践~ストックを活用した新たな生活・仕事の登場~
  • こうしてできたのが、新しいリノベーションの事例です。例えば「東京R不動産」もこのイベントから生まれているサイトです。
  • こちらはセルフビルドによる学生シェアハウスです。手伝ってくれていた学生が私のところに来て、ここに住みたい、しかもDIYをやりたいと話しに来ました。そんなことを許してもらえるのかと思いましたが、会場になっていた建物のオーナーと交渉して、木造2階建を2年間限定で借りることができました。その学生たちは100万ぐらいのお金を一生懸命貯めて、セルフビルドでシェアハウスをつくってしまいました。2004年の話ですが、こういう動きはこの後もっと生まれていくのだろうなと思いました。
  • 次に、コンバージョンのモデルとして、タオル屋さんのビルをクリエイター向けオフィスにコンバージョンしました。現在、全て埋まっています。本日はエリアが遠いのでご案内できませんが、1階にはこのビルに入居してから有名になったカフェがあります。このビルの隣は雑貨店やクリエイティブ系のお店で埋まるようになり、東神田、あるいは東京のクリエイティブの中心の場所へと変化してきています。
  • 活動を起点にギャラリーやショップが進出してきました。見せる場所、売る場所がなければ、クリエイターはお金を得られません。もちろん産業と結びつけることも大事なことですが、こういったギャラリーやショップをつくるいうこともイベントの目標に最初からありました。初めからイベントを継続せず3年ぐらいで終わりにしようと言う話があったのですが、イベントが終わり半年ぐらい経つとまた続けたいという人が出てき、4年目からは規模を縮小して継続し、結果7年ほど続きました。
  • これを起点に色々な新しいお店が入居し、クリエイターも入ってきました。今では第3世代から第4世代になり、メディアでも今や東京一のアートタウンとして紹介されるまでになっています。面白いことに、今地元に行くと、私に「昔こんな面白いイベントがありました」と熱心にCETのことを語ってくれる方が結構います。
  • それから、スピンアウトイベントというものをつくりました。
    アーティストと地元は思いが少し違います。お互いに真剣に何かやろうとしていくと、だんだんこの乖離が激しくなっていきます。特に、私が理事をしていた神田駅前商店街の方々の熱心度が相当上がったものですから、これは分けてしまおうと思い、怒られることを覚悟で別企画を忍ばせました。案の定メンバーから怒られましたが、無事独立させて、当時は「神田技芸縁日」といいましたが、現在は「神田技芸祭・おとな縁日」という名前で続いています。
  • 神田出世不動通りを単純にワンブロック封鎖して行う宴会イベントですが、その場所へは普段お店に入って来ない大手町から神田駅に帰るサラリーマンを狙い、とにかく料理を食べさせてしまうるという、そんなイベントです。内容がシンプルだっただったからか、10年も続く地元の定番イベントになっています。
  • これが起点となって、かなり珍しいことに商店街主導でエリアマネジメントを始めようという話起こっり、現在は社団法人もでき次のステップに入る、そんな動きになっています。
神田における現代版家守事業の実践~REN BASEを拠点としたPODの取組み~
  • 実際は、これらの動き以外にも、地域プロモーションからの仲間づくり等いろいろな活動を「REN BASE」を拠点にしながら行っていました。あまり外に伝わっていませんが、これらを並行しながら、段階的に進めていくというのが、神田で行っている家守型事業の特徴です。
  • このイベントをきっかけにに新たな出店やクリエイターの集積ができましたが、産業化だけはあまり進められませんでした。それは、純粋な手弁当レベルの民間主導でやっていた部分があり、あるところで大きな資本を入れられなかったため、流れを大きく変えられなかったからです。それから、当時の馬喰町周辺の繊維問屋街は、主力が中央区側でしたので、中央区が動かなければならないのですが、地元の方があまり我々が考えるような形で産業を変えるということに興味を示さなかったということもありました。
  • けれどもそれから10年が経ち、いよいよどうにかしなくてはいけないという話になったため、2年前から改めて紹介いただいて再度私が入ることとなり、1年半という短期間で活動を推進してきました。
  • 最初に商業調査のようなことを行い、それをベースにしながら、地域産業の将来を見据えたビジョンをつくりました。次にビジョンをベースにして、今度はデザインコードというのをつくり、中央区で3番目のデザイン協議会までを1年間でまとめました。なぜこんなことをしたかといいますと、馬喰町エリアがかなり乱開発ぎみになっていて、商環境が崩れかかってきたからです。本日最初に、誰のため、何のためという話をしましたが、やはり地元の方々は、商売を残していきたい、続けていきたいという気持ちが強くありました。一方で資産価値も守りたいということでしたので、ビジョンをつくってルールをつくりました。ただし、スピード感を持ってやらないと、乱開発が進んでしまうので、短い時間で活動を推進しました。
インナーシティの新たな可能性
  • 今、色々なまちで都市戦略、エリア戦略を作らせていただいていますが、10年後、あるいは20年後を視野に入れています。テクノロジーの進化はかなり早くて、おそらく今までの不動産の立地価値とは違う立地価値が出てくるのではないかという気がしています。例えば、オフィスビルそのものが要らなくなる可能性すら、近い将来、出てくるかもしれません。そうすると、過疎地や木密の中にオフィスがあっても、自宅で仕事をしながら世界との商売ができるという、そんな時代が多分もう間もなく来ます。その辺までを視野に入れながら、新しい価値を生んでいくということ、まちを囲む機会とか、脅威を捉えて強みと繋げていく、そんなことをやっていくと、インナーシティというのがまた新しい価値を生むのではないかと、そんな風に思っています。

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