街に、ルネッサンス UR都市機構

街みちネット 第20回見学・交流会 「戸越銀座商店街の取組み紹介」

これまでの活動の紹介

活動議事録

講演3「戸越銀座商店街の取組み紹介」

亀井 哲郎 氏(戸越銀座商店街連合会 専務理事広報担当)
戸越銀座商店街の概要
  • 戸越銀座と聞いたことはあるけれども、いらしたことがないという方、手を挙げていただけますでしょうか。ありがとうございます。戸越銀座は、一番近い所で今週の月曜日に東急池上線が終日無料で乗り降りできるという東急さんが仕掛けたイベントがありまして、チケットの配布枚数が約19万枚だったそうです。戸越銀座通りは見たことがないほどの人通りで溢れ返っていて、たくさんお叱りも受けましたけれども、結果としては大成功のイベントだったようです。
  • 戸越銀座通りは、先程ご説明がありました百反通りと並行して、東西に約1.3km、その先の大崎に向かう三ツ木通りまで含めますと2km以上の一本道にあります。連合会は戸越銀座の中にある三つの振興組合、三つの商店街の集合でして、一般的にその全体を戸越銀座商店街と呼んでいます。いまやっと、戸越銀座商店街を一つの大きな商店街と言っていただけるようになりました。20年ぐらいかけて、そういったスケールメリットを追い続けてきた商店街です。
「戸越銀座」という地名の由来
  • 銀座と名前のつく商店街は、一番多い時で全国に約400あったと言われますが、その第1号が戸越銀座ではないかと言われています。本当かどうかははっきりわからないのですが。本家の中央区の銀座が今でも日本で一番の、商業地としてトップの商店街ですけれども、戸越銀座は銀座と非常に深いご縁があります。明治時代、銀座のまちは当時は木造建築で、非常に火事に悩まされていて、明治の初めには銀座の大火というのがあったそうです。火事に非常に悩まされていた銀座は耐火構造のまちづくりを進めようと、レンガづくりのまちを目指したそうです。銀座レンガ街。そのレンガのまちづくりのために、ちょうどこの大崎駅周辺にありました品川白煉瓦製造という、名前は変わっていますけれど今でも残っているレンガ製造会社から、レンガの提供を受けたそうです。火事に強いまちは出来上がったのですけれど、地震には弱かったそうで、大正12年の関東大震災によって銀座も大きな被害を受け、大量にレンガの瓦礫が生まれて、その瓦礫処理が大変問題になったそうです。
  • 時を同じくして、やはり震災によって被災した東京の下町や横浜の商業者が疎開をしてきてできた商店街が戸越銀座であると言われていますが、通りの両側が坂になっており、東西1.3kmの商店街の通りは江戸時代には品川用水という用水路の名残があったと言われる様な、非常に水はけの悪い場所で、ちょっとした雨でも川のようになってしまう構造でした。
  • 大崎駅というのは京浜工業地帯の発祥の場所と言われており、大きな工場が多く集まる工場のまちでした。そこで働く職工や下請けの町工場が、大崎から戸越にかけて沢山点在していまして、その方々をターゲットとしてでき上がった商店街でした。
  • 水はけの悪い構造を何とかしたいと悩みを持っていた当時の商店街の人たちが、本家の銀座で要らなくなった瓦礫のレンガをいただいて来ようと、レンガ製造会社とのご縁もあって、銀座で困っている瓦礫を戸越で解消することにしました。約8kmほどの道のりを、戸越の商人たちがリヤカーで銀座から運び、お客様が歩きやすいようにと通りにレンガを敷きつめて、当時も今も日本で一番の商業地である銀座からいただいたのだから戸越という地名に銀座を名乗ろうということで、戸越銀座と名乗ったのが最初だそうです。銀座と名前のつく商店街、日本で最初かどうかはっきりしたことはわかりませんけれども、非常にご縁がある商店街なのです。
東急池上線「戸越銀座駅」
  • 『池上線』という歌をご存じの方はいらっしゃいますか。大体、ある一定以上の年齢の方だと思いますけれども、西島三重子さんが歌われた歌です。『池上線』のモデルになったのは戸越銀座駅ではないようですけれども、東急池上線の戸越銀座駅は銀座と名前の付く駅では日本で最初の駅で、本家の銀座駅よりも古い駅です。本家の銀座駅は地下鉄銀座線の駅で、昭和9年に開業しています。戸越銀座駅は昭和2年に開業しており、来年90年を迎えます。本家の銀座駅よりも古く、日本で最初の銀座の駅が戸越銀座駅というのが、銀座の方に言わせるとちょっと笑われますけれども、戸越の人たちにとっては一つの自慢でもあるのです。
  • 東急大井町線に下神明という駅があります。区役所にほど近い駅ですが、開業当初は戸越という駅名でした。池上線が開業した時に、既に戸越駅があったため、戸越という駅名が付けられませんでした。既に商店街が戸越銀座と名乗っていたものですから、地元の要望により戸越銀座と命名されたそうです。駅名に銀座と付いている駅は、探しても本家の銀座と戸越銀座ぐらいしかないと思います。後々、東急大井町線の戸越駅が下神明駅に改名したことから、都営地下鉄の駅は昭和40年代に戸越という駅名で開業したそうです。
  • もう一つ、「戸越」という名前の由来には諸説ありますが、戸越銀座1.3kmの一番西側に中原街道という古い街道がございます。江戸時代、徳川家康が江戸に入城する際にはこの中原街道を通って入城したと言われ、今でも旧道が残っています。江戸期に入ってからは東海道が整備され、中原街道は一般の産業道路として庶民に開放されました。江戸の中心から中原街道を通り、戸越あたりを越えると、その先は相模の国に向かっていきます。江戸城下に入っていく、江戸越えの戸越え(とごえ)がなまって戸越になったと言われています。お配りした資料の中にもありますが、戸越八幡神社には「江戸越えて 清水の上の成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなし」という古い歌の石碑が残っており、戸越という地名の由来の一つと言われています。他に、谷を10越える、谷戸越えがなまって戸越になった、という説もあり、諸説ある由来の中の一つと言っていますが、商店街では「江戸越え」という響きから、「江戸越えのまち戸越銀座」をキャッチフレーズにしております。
戸越銀座ブランド
  • 約1.3kmの戸越銀座通りには、350店舗以上のお店が集まっています。戸越銀座商店街は、約20年かけて商店街のブランドイメージを確立しようと、様々なハード整備、ソフト事業を重ねてまいりました。戸越銀座に来なければ買えない商品づくりをしようと、約20年前から戸越銀座ブランドの開発を始め、長い商店街を途中で戻らずに歩いてもらえるよう、現在商店街の様々なお店で「戸越銀座コロッケ」を販売しています。テレビのバラエティ番組などでご覧になった方がいらっしゃるかもしれませんが、肉屋さん、総菜屋さん、飲食店などで、決まった材料を使うということではなく、例えばおでんやさんではおでんのコロッケ、中華料理屋さんでは餃子のコロッケというように特色のあるコロッケを作り、お客さんに食べ歩きしながら商店街を楽しんでもらっています。
  • 今でこそ、池上線の戸越銀座駅と都営浅草線の戸越駅が商店街の中心近くにありますが、それらが開業する前、戸越銀座の最寄り駅は大崎駅でした。戸越銀座の一番東側から大崎駅まで、徒歩で約13~14分です。ある時期に商店街の中に国道が拡幅され、第2京浜国道が国道1号線になったり、池上線ができ、都営地下鉄ができたことによって、商店街の中心が西側に移ったものですから、長い商店街を東側まで歩いてくる方が少なくなってきまして、より商店街を回遊していただく手段として、食べ歩きの提案ですとか、そこのお店に行かなければ買えない商品づくりを目指してきました。
  • そんな中で、一番商店街が大きく変わったのが電線の地中化事業です。幅員6mから7mの商店街ですから、これまでは電線の地中化はなかなかできない規模だったのですが、品川区、東京都、国から助成金をいただきながら、商店街の街路灯を使った電線の地中化事業ということで、街路灯の上にトランスを乗せて電柱をなくすモデル事業として、品川区で2カ所、戸越銀座の3商店街と旧東海道の品川宿で実施され、約12年前に計画が始まってから10年以上かけて、昨年すべての工事が終わりました。
  • 品川区の商店街には、武蔵小山商店街ですとか、荏原町商店街、中延商店街、旧東海道の品川宿の商店街など、有名な商店街が沢山ありまして、その中で戸越銀座というのはそれほど目立つ存在ではありませんでした。わざわざ遠くからやってくるような商店街でもなく、戸越銀座通りという通りの中に小さな商店街が三つあり、商圏とすれば約1km。隣接する商店街同士がライバル関係のような商店街で、お客様の流出をお互いに食いとめるような、よく言えばライバルですけれども、いがみ合ってきた商店街同士でした。そんな中で、ハード整備を契機に三つの商店街を一つの商店街として大きなスケールメリットを生み出そうという考えに至り、都市型観光商店街という考えを持って、より遠くからお客様を呼び込めるような商店街に生まれ変わろうとしたことは、一番大きな変化であったと思います。
  • 最初の頃は、1.3kmで日本一長い商店街と言っていまして、だれからも何も言われなかったのですが、だんだん知名度が高まってきますと、大阪や九州の方から日本一はそちらではないと苦情が出るようになりまして、今では東京で一番という言い方をしています。おかげさまで、今では東京で一番長い商店街と、いろいろな媒体でも取り上げていただけるようになりました。
  • 商店街というビジネスモデルが、今この世の中で、もしかしたらなくても困らないという時代です。買い物をするだけであれば、スーパーもコンビニも、もっと言えばインターネットの通販で24時間好きなときに安く買えるという時代になって、商店街そのものがなくても困らない。スーパーと同じような価格競争をすることはできませんし、コンビニのような長時間の営業をすることもできない現状の中で、どうしたら商店街を存続させていけるのかという考えのもと、僕たちが行き着いたのが、ここにしかない、ここでしか買えない、1999年から始めた戸越銀座ブランドという商品づくりでした。
  • 商店街ブランドの先駆けとして注目していただいていますが、簡単に言うとお土産です。地方の観光地に行ったときに皆さんお土産を買うと思いますが、東京のお土産はあまり買わないと思います。基本的に商店街は近隣住民のための最寄り品中心ですから、自分で食べる自家消費分の商品には強かったのですけれど、ギフトの需要には非常に弱く、お土産はあまり売っていませんでした。そこで、戸越という地名の由来ですとか、そういった背景をパッケージにして、ここに来なければ買えない商品づくりをしようと始めました。
電線類の地中化と景観整備
  • それと同時に、会社で言うCI戦略(コーポレート・アイデンティティ)と同じように、商店街のロゴマークをつくったり、戸越銀座という地名そのものをブランド化するというPRを並行して進めました。ハード整備、電線の地中化を3商店街が共同で行う際には、地域住民の方にも計画段階から参加していただいて、最終的にはコンペによって、明治大学の建築学部の学生さんに街路灯やアーチのデザインを考えていただきました。街路灯のデザインは行灯(あんどん)をイメージしています。アーチは神社の鳥居をモチーフとしていて、地域の方のお祭、祭礼といったものの想いを取入れて、地域住民の方が連合で神輿を担ぐ晴れの舞台として商店街のメインの通りを使っていただこう、という想いも含めてデザインしています。路面は銀座からいただいたレンガをイメージした歩道としたり、ストーリー性を持たせた商店街のハード整備を行い、並行して約20年かけてソフト事業を行ったところ、おかげさまで「戸越銀座は知っているよ」、「戸越銀座はよくテレビで見るよ」という方が増えてきました。
商店街ホームページ「戸越銀座ネット」
  • もう一つ、情報の一元化ということで、20年程前のほとんど前例のない頃に戸越銀座のホームページを立ち上げて、商店街の情報発信を続けてきました。商店街のホームページのトップページは1日におよそ2万人の方に見ていただいており、商店街のホームページの閲覧数としては破格な数字だと思いますが、商店街で買い物をする方だけが見ているわけではなく、全国の方が戸越銀座ってどんなことをしているんだろうと見ていただいく場所になっています。
  • 最近では、戸越銀座をフィールドとして、様々な企業の方からタイアップの申し込みを沢山いただくようになりました。小さな商店街の集まりだった頃にはそういう需要はほぼありませんでしたが、現在は約100本の街路灯のフラグを使って、企業のプロモーションの申込みを年間2~3件いただくようになりました。例えば「雪国まいたけ」や、現在はグッドマナープロジェクトというインバウンド事業に関してのタイアップですとか、戸越銀座全体をフィールド、媒体として企業から見ていただけるようになってきまして、ダイレクトに企業から投資を受けて、お客様に還元できる商店街に生まれ変わりつつあります。
戸越銀座のこれから
  • おかげさまで、戸越銀座ができてから約95年、東急電鉄が戸越銀座駅を作ってから90年になります。そんな中、今では品川区を代表する商店街と言っていただけるように戸越銀座も変わってきましたけれど、今後戸越銀座が目指していますのは、こんな商店街の近くに暮らすことそのものが、非常に暮らしを豊かにする、そう思っていただける商店街だと思っています。最近ではこういった商店街の近くの環境が子育てにいいということで、近隣にマンションも沢山建ち始めていて、引っ越して来られる方も多くなってきていますし、高齢者の方も終の住処として、こういったコミュニティのしっかりした場所で最後を暮らしたいという方も増えてきています。商店街は買い物をする場所ですけれども、買い物だけではなく、地域の方と一緒につくっていくコミュニティの中心であり、商店街がまちの中心であり続けることによって地域の方のプライドも非常に高まってくるということを実感しています。
  • 戸越銀座が、小さな商店街の集まりから一つの大きなスケールメリットを生み出せたのも、行政のご協力のおかげであり、ハード整備が一つの大きな契機になったというのが結論です。以上、短い間でしたけれど、どうもありがとうございました。

質疑応答

質問1
  • ご説明の中にあったブランド事業ですが、この戸越銀座のブランド化がうまくいった秘訣といいますか、一番の理由は何だとお考えでしょうか。
亀井氏
  • 例えば、私の家族が友達の家に遊びに行くときに、デパートの地下で京都の和菓子を手土産として買って行ったりするのです。近所にはおいしいケーキ屋さん、和菓子屋さんもありますが、近所では買わないのです。なぜ買わないのかというと、やはりそこにはブランド力が足りない。自分で食べる分には特に気にしないわけですけれど、人にあげるとなると、いただく方も、あげる方もうれしいほうがいい。そこで違いを考えると、例えば有名だとか、誰々からもらっておいしかった、というところなのではないかと思うのです。
  • これまではそういう商品を必要としていなかった商店街が、自家消費だけではなくて、ギフトの領域まで広げていこうとした時期、戸越銀座商店街が下り坂の時に非常に寂しい思いをしてきた地域住民の方が沢山いたのです。元々は地元にとっても愛着を持っている人たちが暮らしてはいるのですが、「うちの商店会、昔は賑やかだったのに最近はだらしないよね。悔しいね。」と言っている方も多くいらっしゃいました。そこで商店街側の人たちが「だったらどんなことをしたらいいか」、「どんなものをつくったら買ってくれるか」という地域住民の市場調査をしたのです。皆さんに食べてもらったり、意見を聞いて、つくり上げた商品というのがオリジナルブランドでした。
  • それまで商店街の人たちが勝手に物をつくり、安いよと言っていた商品が売れず、実際に消費者の方から意見を聞いて、パッケージデザインにも意見を取り入れて作った結果、商店街の人たちが「安いよ」、「買って」と言わなくても買いに来てくれるということが起き始めたのです。ここに気づいたのが成功の理由だったと思います。マーケティングが実はそこにあったということです。
質問2
  • 今日は貴重なお話をありがとうございます。十年前に戸越銀座にお邪魔したことが一度ございまして、その当時かなり車が走っていて歩き難かった記憶があります。今、交通規制はどうされているのでしょうか、また電線の地中化の前後で交通規制の変化がありますか。
亀井氏
  • 地中化の前後で交通規制は全く変わっていません。月~金曜日の午後3時~6時と、土日祝日の午後2時~7時が歩行者優先道路です。この時間帯は、高度成長期の頃、専業主婦と言われる方々が商店街を歩く時間帯でした。しかし今では専業主婦はほぼいらっしゃらないので、車が通れない時間帯は意外と閑散としていたりします。高齢化社会ですから、午前中病院に行く時間帯が一番人通りが多いのですが、逆に車も多く、ご指摘の様に歩き難さもありまして、交通規制と使用の実態とが乖離しているのは問題だと思います。交通規制を変えるのは非常に大変だそうですが、現実の戸越銀座は通交量が増えてきていますので、そういったことも問題の一つです。物流も時代の変化と共に変わり、午前中の高齢者が病院に行く時間には本当にトラックが多く危険でして、今後の課題だと思っています。専業主婦がいない時代ですから、もう少し車の通る時間帯をフレキシブルに変える必要もあると思います。

関連ページ

メニューを閉じる

メニューを閉じる

ページの先頭へ