街に、ルネッサンス UR都市機構

街みちネット 第15回見学・交流会「密集市街地整備と街みちネットへの期待」

これまでの活動の紹介

活動議事録

3.基調講演「密集市街地整備と街みちネットへの期待」

首都大学東京(東京都立大学)名誉教授 髙見澤 邦郎 氏
  • ご紹介いただいた高見澤です。お手元のメモの順序でお話をさせていただきましょう。
基調講演
はじめに
  • 本間部長や中村リーダーから、過去14回のお話と中身の概略のご報告がありました。皆さんの印象でもそうでしょうけれども、前半はかなり密集ということの事例をきちんとみんなで見て議論していこうということであったけれども、後半には、それと併せて、やや密集そのものではないけれども、今日の時点で大事そうな、たぶんきょうのテーマの1つでもあるのでしょう、ややソフトな、地域社会にどう関わるかというようなテーマで企画が進んでいって、私も幾つか参加いたしましたけれども、大変面白く勉強させていただきました。
  • 私自身、もうずいぶん昔に研究者の足を洗ってしまって気楽に生きているのですけれども、1970年前後にいわゆる研究的な生活に入ったわけでありまして、最初にやったのが、割と良好な住宅地の維持の問題というテーマでした。1つの思いとしては、都市計画というのは、32mの道路をつくったり、公園の指定をしたり、用地買収したりという、しっかりした部分があるわけですが、それだけではなくて、個々のお宅の方々が建て替えたり、相続したり、あるいは細分化したりという中で、小さな民間の力でまちは変わっていくのではないかという思いが、今思えば70年前後に、そういう気がして、小さなまちづくり的都市計画というものを勉強してみようという気があったわけです。
  • でも、そんなことをしていると、都市計画の大先生からは、特に土木系の大先生からはずいぶん怒られました。あまり言うと個人が特定されてしまうけれども、とりわけ国の、大変偉くなって、後に法政大学の教授になられた大先生などには、「君、君、小さいこともいいけど、都市計画というのは大きい問題だよ」と言われましたけれども、最近お会いすると、「君のやっている、ちまちましたこともとても大事だね」と言ってくれています。それは冗談として、そういうようなところから勉強を始めて、しかも、都立大学が首都大に変わる前で、まだ目黒、深沢にあった時代ですから、とりわけ目黒区のほうは、柿の木坂の良好住宅地のど真ん中にあったわけです。ですから、調査研究するのにも自分の足で歩いて行ける範囲でできる。出張費が要らないという良さもあったように思います。それで、建築協定の勉強とか、今日的地区計画の勉強とか、そういうことをやってきたわけですけれども、それだけでは済まなくなって、1つが、やはり都心を中心とした密集市街地の問題、そして、もう1つがニュータウンなどの郊外の問題というふうに多少範囲を広げていったわけであります。
  • これは、きょうの話題の1つでもあるのですけれども、密集地と郊外ニュータウンというと、当然ですが、当時は全く違うものでしたし、2つのエリアとしてやってきたわけですけれども、それから50年近くなった今日ですと、かなり似た問題が出てくる。すなわち空き家が出てしまうとか、高齢化が進むとか、孤独死・孤立死が見られるような時代ということで、社会経済的には似たような問題が起きているのではないかというふうに最近思うわけです。共通項があるのではないかと思います。
密集市街地整備の50年を振り返る
  • そんなことで、1番の「密集市街地整備の50年を振り返る」と、ちょっと大げさなタイトルですけれども、しかも、今さらかもしれませんけれども、たぶん、きょうお見えの方々、とりわけ公共団体やURで働いていらっしゃる方々の中には、生まれたときから密集市街地整備というのはあった。それで、建築や土木やいろいろな勉強をしながら大学を出て、いろいろなところへ勤めてみて、密集市街地の問題というのがあるんだね、だけど、たどってみると自分が生まれた以前からそういうことをやられていたんだという方々も多かろうと思うので、多少昔を振り返ってみようということです。
<1960年 住宅地区改良法>
  • 3つの項目がありますけれども、私が大学を出る少し前ぐらいから、つまり1960年に住宅地区改良法という法律ができました。後のパネルディスカッションのおまとめをなさる林泰義先生が大学を出たのがそのころですね。ですから、20世紀後半の大きな柱の法律だったわけです。ご存じかもしれませんけれども、そこに書きましたが、括弧にあります昭和2年(1927年)の不良住宅地区改良法という法律が戦争中に執行停止になって、それが、高度成長が始まるころに復活したのが1960年の住宅地区改良法でございました。
  • これは大変力のある法律だったと今でも私は思うのですけれども、10年前ぐらいの値で、一千余りの地区で20万戸をはるかに超える戸数の改良住宅、公営住宅ですが、供給が行われました。最も大きくて有名なのは、象徴的なのは広島・基町ですね。県・市が一緒にやられて、あそこが40年たって今でもいろいろなことが言われております。建築的にも、大高正人先生のデザインされた、しかし、非常に部屋が小さいのでいろいろ問題も起きたりしているし、1つの象徴的なものですので、いわば原爆スラムの再開発だけですけれども、その住宅地区改良事業というのは、基本的に戦災を受けた、その後に密集化したところを何とか改善しなければいけない、住宅と住環境を良くしなければというのが、いわば国家の責任というぐらいに思い詰めた法律だったと思います。
  • というのも、ある公式の基準値ができておりまして、地域を精査して、悪いところに点をつけていくわけですから、点が多ければ多いほどいわば問題があるわけですけれども、たしか4要素で400点満点でつけて、100点を超えると候補地区となってくる。それで、そこへ国費補助がついて、言ってみれば、強制的とは言わないけれども、ほぼ自動的に流れていく。それが全国一千何百という地区を可能にしたと思われます。
  • それで、戦前の不良住宅地区改良法のときは、そういう基準がなかったので、結局、京都はやれなかったわけですけれども、ほかの東京を含め5大都市で、できたらやりましょう、頑張ってやりましょう、モデル的にやりましょうということだったので、7地区で終わってしまったわけですね。その後、日中戦争に入りましたし、やれなかったということもあったと思います。
  • ですから、戦後の1つの懸案事項の解決のための地区改良というのは、ほぼ70年代には終息、つまり、もうやるところがないとは言いませんけれども、戦災と、もう一つ加えれば同和問題への対応ということで、かなり進んだ。残っているところは、小さい地区しかなく、なかなか要件に合わないということで、小集落という小さいところに適用するというふうに移ってきたように思います。ですけれども、さっきちょっとご紹介があったし、後ろのほうに資料があるかもしれませんけれども、板橋区の大谷口というところだけは、本当にできるのという感じだったのですけれども、住宅地区改良法でやろうということで、私などは実務がよくわからないですけれども、ギリギリ際どい地区取りをして頑張られたのではないかと思います。そこへURのいわば技術力が入った。それで、板橋区その他と協力してできたということで、もはや東京都庁にも地区改良をやった人がほとんどいない時代ですね。その時代になってから、よくやったと思います。特に区の方などは、地区改良ということを法律もゼロからもう一回見直さなければいけない、そのころにやった希有な例かと思います。
<1970年代 住環境整備モデル事業、木賃住宅地区総合整備事業等>
  • しかしながら、そうやって地区改良がだんだん少なくなっていく中で、法律に基づかないで、もっと別のことをやっていこうというのが関西で幾つか芽生えました。その中でも最も有名だったのが、今でも有名ですが、豊中市の庄内地域という場所であります。ここを大阪府庁と豊中市と、豊中は千里ニュータウンという高級なところを北側に持っていますけれども、もっと大阪市寄りのところで、UR、公団も協力して何かできないか。特に京都大学の西山先生の時代でしたから、お弟子さんたちも一生懸命そういうものに取り組んで、これが昭和47、48年から50年代にかけてだったと思います。今でも続いていますけれども。
  • そこで取り上げられたのは、戦災の問題ではなくて、戦後の高度成長期に、東京にせよ、大阪にせよ、まさに中卒で工場に勤めるために皆さんが大都市にどんどんと出てきた。松下電器に勤められた人はそのまま上昇されたかもしれないけれども、当然ながら、下請さんとか、もっともっと小さい方々がいて、そういう人たちも住むところがない。それで、関西流に言うと、木賃文化住宅の狭い、ガタピシガタピシで狭い共同台所と狭い共同便所、そういうような住宅群が山ほどできてしまった。道路は舗装もされていなくて、いわば基準法などは無視されてしまっていて、雨が降れば水溜まり、下水道もない。そういう場所を何とかしようということで、庄内地域のまちづくりというのが、これはやはり関西の人々の偉さだと私は思います。ともかく、大事なことならば何とか突破口を開こうと、そういう先進的意欲というのは、どうも関西のほうが、やはり東京にいると、まず霞が関の皆さんが何を考えるかというのをちょっと見てからいこうというような気風になってしまいますけれども、関西の方々は、自分たちが何か開けば後から何かついてくるのではないかと。事実、そうだったわけです。
  • そこで、住環境整備モデル事業とか、木賃住宅地区総合整備事業と、名前はコロコロ変わりながら発展していくわけですけれども、そういうものが生まれてきたのが1970年代以来だったと思います。ただ、これは法律ではありませんから、要綱事業ですから、やはり自治体等のよほどやる気がないと、義務的なものではないから取り組まない。しかし、1980年代に入って、ずいぶんたくさんの地域で、東京の23区と言ったらいいでしょうか、区が一生懸命やられた。
  • その中で、神谷一丁目で住環境整備モデル事業が、実に事業的な年数で言うと30年かかっているわけです。15年から20年で中身はほぼ完了したわけですけれども、これが実に当時の住宅公団が事業主体となって施行したものです。神谷一丁目というところに工場群があって、そこの大きな工場が跡地として売られて、隅田川の近くですが、その隣接するところに密集した市街地がある。ですから、そこを一体的に整備してしまおうということで、当時の公団が手を挙げて、もちろん区の全面的協力のもとですけれども事業を実施したわけで、これは偉大な事業だったなと思います。すなわち、手法的にも、民間にもう一回棚卸したのは工場跡地の半分ぐらいでしょうか、公団自体の住宅も建てたんですよね。ですから、きょうのテーマであるように、民間ディベロッパーさんに棚卸して、ある土地は公団自体の賃貸住宅を建てて、それもある種のタネに使いながら、周りの密集した市街地に細街路を入れたり、小さい公園をつくったりということで、まさにモデル中のモデルというのが神谷一丁目だったと思います。ですから、これは改めて、きょうはURを褒めに来ているわけじゃないけれども、もう一回きちんと見直す必要があると思うし、URの中でももう一度再確認していただくとよろしいのではないかと思います。
  • そういう非常に息の長いモデル的なものを含め、よく言われるように、東の太子堂(世田谷区)、西の真野(神戸市)のほか、後でご紹介があると思いますけれども、東京の京島(墨田区)、足立区の関原、杉並の蚕糸試験場の跡地、それから、豊島区の東池袋は現在進行形ですね。といったぐあいに、かなり個性がある。やはり住宅地区改良事業というのは、正直言って、どこへ行っても4階建てか5階建てのアパートをつくって、緑地公園をつくるのが原則だったけれど、太子堂や真野などがそれぞれテーマを持って修復という新しい手法を実践し、大変おもしろい事例が続いたと思います。今考えると、財政的な面でも、人材ストックとしても区にゆとりがあったというのか、新しいことをやってみようという時代だったので、割とみんな元気がよかったのかもしれませんね。
<阪神・淡路大震災、密集市街地整備法制定>
  • さて、それからパッと時代が変わったわけではなくて、その延長上にあるわけですけれども、今年がちょうど20年目になりますが、阪神・淡路大震災を経て、法律も整備されて、制度も、要綱事業もいわばリファインされたという、ここ15年、20年の時代がまいります。
  • その特徴は、やはり大都市の密集市街地の防災・減災、減災すなわち想定される被害をより小さくしていこうと。東京都の場合も、今想定されている被害、死者、建物等を半分までに何とか落とそうというようなことを減災というふうに称しておりますね。それには、どうやら公共団体がひとりでやれるという問題ではなくて、住民、自治体、コンサルタント、そして民間の事業者というあたりの、協働でないととてもできないという認識が持たれている、これもきょうの大変大きなテーマだと思います。URさんの中では幾つもあると思いますけれども、長い京島の市街地整備の中でも、ここ10年ぐらいの特に力が入っているところでの防災街区整備事業、ここの事業自体はもうほぼ終わったわけですね。ただ、それで京島二・三丁目のまちづくりが終わったかとなると、きっとそうではないというあたりもまた後でご紹介いただけると思います。
  • それから、私は関西のことはわかりませんけれども、資料を見ると、門真では特定建築者として民間事業者に入ってもらっているというような事例も出ているようでありますね。こんな具合に、住宅地区改良事業の時代はともかくとして、70年代から90年代にかけて、その基礎のもとにここ20年があって今日を迎えているということがあると思います。
密集市街地整備の今日的課題を考える
  • さて、そういう時代変遷を経て、3つぐらいのことを課題として置きたいということであります。
<時代の変遷の中で、空間整備から地域社会の再生へ>
  • 1つは、こういった社会経済が変わっていく中で、どうやら空間・ものの整備だけでは済まなくなってきて、ソフトな問題にも対処しなければいけないようだという気がするわけです。つまり、京島、京島とばかり言いますけれども、私たちが学生だったときは吾嬬西とか吾嬬町というあたりだった。その後、丁目地番の改定で京島になったわけですけれども、昭和30年代、東西はヘクタール500人、600人というような極めて密度の高い、まさに密集市街地だったわけです。ですから、どうやってそういう密集度を減らしていくか、もう少し人間らしい住環境をつくっていかなければいけないというようなことが命題だったのですけれども、それから40年、50年たってみたら人口が減っていってしまったわけですね。今、たぶん京島の人口密度は250人強ぐらいだと思います。昭和30年代からすると、半減したわけです。これは、もちろん事業制度の適用の効果でもあったのでしょうけれども、それだけではないというのは皆さんもお気づきのとおりですね。別の要因で人口が減っていった。減ると同時に、高齢化していく。
  • あの地域は今少し元気が出ているわけでありますけれども、基本的に東京の東半分の密集市街地は地域の沈滞化ということがテーマになってきて、その中で地域全体をどう活性化させるか。高齢化社会の中で、どうソフトランディングするような地域になれるかというようことにどうもテーマが変わってきたように思います。
  • そうなると、密集市街地に取り組む、とりわけ自治体さんにとって、やはり密集改善を空間的に改善することの意味をもう少し普遍化したと言うほうがいいのか、地域への効果というような意味で捉える必要があるのではないか。けれども、そこまでいっているのかなというあたりもご議論いただけるといいと思います。
  • ご紹介があった街みちネットのここ数回の中には、横浜の黄金町、非常に問題のあったエリアで、アート、若い方々の芸術作品というものを1つの切り口にして、町内会や学校や警察と連携して、元気を取り戻しつつある例を見せていただいたりしました。これもまさにハードとともに、ソフトというものの象徴的なものだと思いますし、ついこの間は、林さんのご案内で、世田谷で地域共生的な活動をされているグループ、あるいはその施設を見せていただいて、1つの例の中では、まだ世田谷は農地があって、その農地を持っている方も参加して、畑で採れたものをデイケアでみんなでつくって、みんなで食べるといったような活動をなさっているとか、地域に即したいろいろな活動が、世田谷のその場所は決して密集ではありませんけれども、ヒントになるということで見せていただいたわけであります。
<防災減災の促進という課題と住まい・暮らしの改善という課題の両立>
  • それから、そういったソフトとハードという問題と似ているといえば似ているのですけれども、もう1つの切り口で言えば、防災・減災という、これもハードではありますね。そういうことが当然ながら強調されるわけですけれども、そのことと住む人の住まいや暮らしの改善というものを両立しなければいけない。けれども、うっかりすると、ハードの整備にお金と人材が投入されて、そして、一般の人の住環境なり住まいというものが等閑視されるというジレンマもあるかもしれません。それを、両立するためにどうしていったらいいのだろうかということも大変大きな課題であります。
  • 東京都の防災都市づくり推進計画を拝見すると、燃え広がらないためには延焼遮断帯的な道路をきちんとつくらなければいけない。そして、不燃領域率が70%で、理論的に言えば、中での燃え方もおさまるという前提で、燃えないまち、燃え広がらないということで、不燃化特区というものを設定して、そして、幾つかの都市計画街路の整備に今、全力を10年プロジェクトとしてあげているわけです。
  • ただ、懸念するのは、そのことにおいて、不燃領域率が上がったという指標は5年、10年先にきっといい値が出てくると思いますけれども、では、そのエリアに住んでいる人の暮らしがどう改善されたのかというのはなかなかはかり難いわけです。その辺はハード先行で、震災対策は当然非常に重要だとは思いますけれども、人や暮らしは後からついてくるだろう、そこまで自治体が気を使うこともない、という風潮になると困るなと。やはり人や住まい・暮らしがあってのまちの減災化ですから、そういった問題もぜひ意識しなければいけないと思います。
<たくさんのプレイヤーの協働の問題>
  • そして3つ目に、たくさんのプレイヤーが協働するという問題でありますけれども、それが自治体側から、自治体の力がだんだん弱くなってしまったから何とかほかの人の力を借りて進めたいという、そういう結果論ではちょっとおかしいと思うわけで、なぜ「協働」という概念が必要なのだろうか、一体誰が協働するのかというあたりもよく考えなければいけないと思うわけです。うっかりすると、制度をうまく使うために、誰と誰と誰がプレイヤーになって頑張りましょうという、制度先にありきでの協働ということになってしまうと、やはり住民が取り残されてしまう恐れがあるということですね。もちろん、自治体の行政力がマンパワーの面で弱くなっていることは事実だと思います。先週末も、震災20年ということで神戸で集まりがあって、神戸の市街地整備の部長さんがシンポジウムで話していましたけれども、阪神・淡路のときには、大体250人から300人、建築職という括りですが、そのぐらい技術者が役所に働いていた。それは大変大きなパワーですよね。それ以外に県庁があり、西宮市があるわけです。しかも、阪神・淡路のときは、公団から現地本部をつくって、あのとき、最大で300人の方々が出向して働いていた。それに匹敵するぐらいの神戸市役所の、建築職という限定はありますけれども、土木職もいれば、もっと多くの人がいた。その建築職が今は半減しているというのです。もう150人を割っている。つまり、建築職だけがパワーじゃないけど、それで例えれば、20年前の半分ぐらいの人員で行政にタッチしなければいけない。ですから、量的な面で、自治体の力が弱くなっているのは事実だと思います。その中で、いろいろなプレイヤーが一緒にやっていくということの大事さは大変大きいものがあると思いますけれども、やはり誰と誰と誰と誰と、できるだけ広い範囲の人が役割を果たしていくというようなことを、特に仕掛ける側は考えていただきたいと思うのです。
  • ついでに。うまくご理解いただけるかわからないけれども、私は「目的 目標像 手段」説というものを唱えているのです。これはどういうことかといいますと、「手段」というのは法律制度、手法、要綱・制度と理解してください。それで、手段先にありきということではなくて、このまちをよくするという大きな目的が先にあるわけで、それに使える手段を構築して採用していくことが必要だというのが大きな1つの言いたいことです。
  • と同時に、「目的」というのは、プレイヤーそれぞれにおいて、極端に言えば一人一人において違う、違っても構わない。大きく言えば、自治体にとっては、密集した悪いストックを少しでも改善して、将来に向けてよい自治体をつくっていこうという大きな目的があると思います。それから、住んでいる人にとっては、今のすきま風も通るような住宅を、広くならないかもしれないけれども、住みよい住宅につくり替えられるとありがたいという目的があると思うのです。
  • そして、参加する民間事業者にとっては、大きな目的はやはり民間企業としての責務を果たして、そこから多少とも利益を上げて、併せて公共的な事業をしているという企業イメージも、事実そういうことになるわけですけれども、そういう目的があるかもしれない。ですから、目的は、参加する方々、黄金町の例で言えば、アーティストは何もまちづくりのために俺は頑張ると言っているわけではなくて、自分のアートを皆さんに見てもらって、それがみんなのまちづくりに役立つならこんなうれしいことはないと、そういう目的で参加されているわけですね。ですから、目的はそれぞれのプレイヤー、要するに、プレイヤーというのは誰であって、その人々がどういう目的を持つか、それは多種多様で構わない。
  • ただ、「目標像」と間に書いたのは、これはプランであります。でも、その目的を達するために、あるいは、いろいろな制度を活用して何かするとなると、やはり1枚のとは言いませんけれども、絵が必要ですね。この道を広げようとか、ここの1,000坪のところは建て替えてマンションにしようとか、そういった図を描かなければいけない。この図については、やはり多様な目的を持った方々が合意していただかないと物事は進みませんね。それで、その目標像に基づいて制度も運用される。そういう仕組みを、今さら言われればそんなものだと皆さんは思うでしょうけれども、あえて「目的 目標像 手段」というのを1つの仮説として私は持っているわけです。
  • これは、私があえて言い出している面もありますけれども、特にURの方々にとっては、大先輩である川手昭二さんは多摩で課長をやった後、港北ニュータウンの所長をやりました。昭和40年代の終わり頃からです。その後、筑波大学で先生になられて、今年、米寿、88歳になられるわけですけれども、川手さんが港北でやったことがまさに「目的 目標像 手段」説だったわけです。つまり区画整理という手段がある。それでやるのはもちろんだけれども、従来の区画整理はだめだと。結局、地権者さん、農家地主さんですが、その人たちの将来の生活設計、全部の土地が宅地になればいいと思っているわけではないのだと。自分が5,000坪持っているなら、2,000坪ぐらいは農地で残したい。1,000坪ぐらいのところは貸家でもつくって一応利益を得たい。それで、200~300坪は、子供たち、孫たちも考えると例えば自宅として残したい。それで、1,500~2,000坪は取られてしまうのはやむを得ない。だけど、そういういろいろな気持ちが特に地主さんにはたくさんあるわけだから、それぞれの方々の意向を申し出てもらって換地をしようと。今では当たり前になっている申出換地制度ですね。それを川手さんは目論んだわけです。二千数百人の地権者にみんな意見を聞いて、あなたの土地利用はどうしたいのかと。ただ聞くだけではありませんね。当然、いろいろコーディネーターとしての方向性も出すわけですけれども、それぞれの目的をかなえさせるためには、換地を申出換地でして集約化していかなければいけない。
  • それで、沿道賃貸住宅地区とか、農業の農地専用地区も区画整理の中でつくりました。それで、川手さんは霞が関に持っていったけれども一蹴されるわけです。そんなばかなことはない、憲法違反で訴えられたら全部パーだよ、そんなことをやってはだめだというのを、何年もかかって説得し切って、その過程で彼は胃潰瘍になって胃全摘手術をしましたけれども、そのぐらいの思いで、それぞれの主体の、それぞれ異なった目的をいかにして制度の中で実現するか。そのためには、港北ニュータウンのプランを描いて、それを実現しなければいけない。プランは1つだけど、目的は多様である。その目的とプランを実現するためにこそ制度があるわけで、制度というのは改善すべきことがあるというのが川手さんの教えでありました。私は、学生時代、川手さんが非常勤で都立大に来た最初の弟子なんです。当時から格好のいい、元気な人でしたね。今でもそうですけれども。その先生の港北を見て、私はこういうふうに思ったわけです。
おわりに
  • そういうことで、繰り返すならば、①「地」というのは、ゴチャゴチャいろいろある東京の市街地ですね。そういう中で、特に都心の、今はオリンピックということもあって大変華やかに「図」が描かれていますけれども、その「図」はともかくとして、「地」の地域社会の活性化という、30年前、50年前には考えられなかった、元気はあるけど混んでいて困るという時代から、混み具合はだいぶよくなったけれども、どうも元気がなくなってしまったという時代に変わった中で、密集というものも取り組んでいかなければいけないだろうということであります。
  • それから2番目、これも繰り返しですが、ハード面での減災・防災はとても大事だけれども、やはりそれだけではいけなくて、住まいと暮らしの向上ということの両立ということを、大変難しいことだけれども目指さなければ、こういう事業の公共性が疑われるだろうということです。
  • そして、3番目に「協働」というものが、今まで申し上げたことがうまく伝わったか、あるいは正しい見方だったかどうかわかりませんけれども、「協働」というものを言葉で言うのは大変格好いし、美しいけれども、現実にどうしていくのかということを、あまり苦しむ必要はないけれども、楽しみながら輪を広げていくような方向で考えられないかなと思います。
  • 出だしで申し上げたように、街みちネット自身が非常に技術的だったり、計画論的であったりする、いわば内側で磨こうということを大事にしていらしたけれども、同時に、密集市街地部隊というか、そういう世界から外へも情報発信したり、外の情報も内側に取り入れていこうという遠心的な動きになっているというのは私は大変よろしいことかと思うし、今後もこの2つ、求心性と遠心性の両方を維持して運営していっていただきたい。これからも時々、私も参加したいと思います。
  • 皆さん、どうもありがとうございました。
基調講演

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