街に、ルネッサンス UR都市機構

街みちネット 第9回見学・交流会「復興計画づくりと実施の現場から」

これまでの活動の紹介

活動議事録

復興計画づくりと実施の現場から
自己紹介

石川 永子 氏
  • 一度は住宅メーカーに勤め、5~6年設計をしていた。その後大学に戻り、昼間は墨田まちづくり公社の密集事業や、京島のまちづくり協議会と一緒に耐震改修の促進のお手伝いをしたりしていた。 その後3年前に大学院を卒業して現職となった。今関わっているのは復興計画などだが、基本的には防災まちづくり、福祉系のまちづくり、避難所のユニバーサルデザインなどに取り組んでいる。
  • 復興計画の策定支援に行った背景には、博士論文が新潟県の中越地震の集団移転についてのもので、防災集団移転事業と小規模住宅地区改良事業の2つの事業が自治体によって かなり方針や使い方が違ったため、事例の比較研究をしたということがあった。
  • 今日は神戸の震災の日で、17年経っても想いを共有する文化があるということを思いながら来た。

人と防災未来センターの現地支援

石川 永子 氏
宮城県・内閣府の災害対策本部での支援業務
  • 人と防災未来センターの事業の1つに、災害時の現地支援がある。今回は宮城県庁に災害発生数日後に行き、宮城県庁の災害対策本部と政府の現地対策本部の両方に席をいただいて、 当センターの研究員7人が交代で常駐して支援を行った。それと並行して、南三陸町の復興計画の策定支援をしていた。
  • 国の災害対策本部のお手伝いや、宮城県の災害対策本部で関西広域連合等と宮城県をつなぐ仕事もしていた。 人と防災未来センターは兵庫県と内閣府の共同出資なので、両方の会議に出席していた。
南三陸町で復興支援に入るまでの経緯
  • 国が色々な視察に行って、宮城県の中で一番大変なのは南三陸町で、復興計画の策定に関わる人材がほしいという話が4月初旬に内閣府にあり、当センターが支援することになったというのが始まりである。 南三陸町は平らなところがテニスコートしかないため仮庁舎はテニスコートに建っており、災害対策本部もコンテナの中に仮の机を置いて仕事をしている状況だった。
  • 復興計画の策定で行ったが、役場も混乱のなかだったので、初めはコンサルタントの営業と間違えられ、最初の2~3日は朝と夜は御用聞きに行ったが担当者がおらず、手紙を書いたりした。 3~4日してようやく「資料を作ったが見てくれないか」などと言われるようになった。足の踏み場もないほどの人口密度で、素性のわからない人間が机1つもらえるような状況ではとてもなかった。そんな中で支援が始まった。
  • テニスコートに建てられた役所仮庁舎

  • 関西広域連合事務所 (平成23年3月時点)

南三陸町に滞在して感じたこと

石川 永子 氏
宿泊場所、移動手段など
  • 4月の初めに南三陸町に行ったが、被災自治体で庁舎が流されており、当初はほとんど短期の1~2週間の職員しか受け入れられない状態で、6月1日から半年くらいの長期で復興計画の策定や 仮設住宅の建設業務を行う応援職員を受け入れられるようになった。
  • 私も住むところがなく、仙台、登米、石巻、松島のホテルから、工事車両で渋滞している三陸道を通り8時半に間に合うように早朝に出勤していた。タクシーもホテルもマスコミが押さえていて ほとんど動かない状況だった。南三陸町内のホテルや旅館で流されずに残ったところは6月くらいから住民の方の二次避難所になっていたが、人が減り始めたので、7月からはそちらに泊まらせていただいていた。 断水状態だったので、お風呂も数日に1度だったし、トイレも自分の部屋のものは使えず、大はホテルの外の仮設トイレで、小は各フロアにある公衆トイレですることになっていた。 高齢者の方でも夜中に外のトイレに行くという生活をされていた。それでも、ホテルで避難生活を送れるだけましで、他の避難所でもっと過酷な状況のところもあった。
巨大地震独特の状況
  • 今回は道路が通行できないというよりガソリン不足により、宮城県庁も避難所関係の部局も3月中は現地の状況をつかみきれず、現地のNPOの方や保健師さんから情報を得るしかない状況だった。
  • 避難生活に関しても、広域避難をしていたり、色々なところに一時的に避難をしていたりと多様で、特例として被災建物の応急修理をまだ受け付けている市町村もある。 応急修理は通常期限までに修理が終わったものについて認めるが、今回は避難の多様性に加え、大工が忙しく修理を始めること自体がまだできないという状況もあり、 期限までに申請したものを認める方式に変わっている。
  • 仮設住宅の用地選定も、浸水域かどうか、公有地か共有地かで、どこを優先させるか県と市町村で方針が違い、混乱もあった。県の借上げ仮設住宅も4月30日までは県が集めた 空き家リストの物件のみを県の借上げ住宅としていたが、その後は、制度を柔軟に運用し、入居者が見つけた物件も遡って認めることになったため、借り上げ仮設住宅がものすごい数になっており、 その事務手続きがとても煩雑になっている。
三陸の地域性
  • 三陸の地域性により、住宅再建と産業再建の優先度の考え方が被災者によって異なる。漁業をやっている方々は仮設住宅に入った時点で、住宅のことはしばらくいいから早く港を直してほしいと望んでいる。 港を直してお金を稼がないとローンを借りる訳にもいかないし、高台を造成しても家が建てられないという話がある。南三陸では漁業者は人口の約2割だが、加工業や運送業などの産業は漁業を基点に リンクされているので、漁業ができないとみんな困る。住民の大半は町の中で仕事をされているので、産業が廃れたら住まいが再建されたところで住む意味がなく、他のところに流出してしまうということが 現実としてある。
  • 契約会、契約講というものがある。これは「結」のような組織で、山に大きな共有の土地を持っていて、お金も力も持っているので、行政との連絡役となる集落長よりも契約会の会長の方が発言力が 強いことも多い。大体集落の半分くらいの世帯が契約会の会員になっていて、そういう方々が合意形成に大きな影響を与えている。東北全域ではないと思うが、多くの漁村ではそういう仕組みがある。
行政機能の低下
  • 行政機能が低下している中で災害対応だけでなく復興計画をどのように考えるのかということがある。
  • 南三陸町では職員の7割くらいが家を流され、仮設住宅などに住んでいて、復興計画を作っている。6~7月の準備説明会の時は、クレームはそれほど出なかったが、徐々に復興計画が現実味を 帯びてくるとお金の話も出て、住民説明会などでは厳しいやりとりが続くこともあり、職員もかなり疲労が溜まっている。おそらく南三陸町だけではなくて多くの被災市町村の職員がそういう状況だと思う。

南三陸町の地域性

石川 永子 氏
南三陸町の概要
  • 牡蠣や蛸が有名である。蛸は、西の明石、東の志津川と言われるくらいで、弾力がありおいしい。観光業も盛んで多くのホテルもある。過去にも何度も津波災害に遭っている。 志津川地区の壊滅状態だった市街地は、以前区画整理をかけたところだった。
被害状況について
  • 非常に防災意識が高いところで、避難訓練も参加率が高く熱心に取り組んでいたが、海の近くより内陸に入った海が見えない川沿いの集落で、津波が来るとは思わず人的被害が大きくなって しまったところもある。多くの方が亡くなった志津川病院でも屋上に患者の方を上げていたが間に合わなかった。三階建ての防災庁舎は鉄骨だけの状態になっている。 まさかここまで津波が来ることはないだろうと屋上に避難したが鉄骨階段の手すりにぶつかった人たち以外は流されてしまった。
被災後の状況
  • 南三陸町では戻る家がないので、6月の時点でも最大避難者数の約30%近い方が避難生活を送っている。水道の復旧も県内で一番遅く、6月の時点でも一部しか復旧していなかった。
  • 一時避難所は4月の段階では劣悪な環境で、ベイサイドアリーナという国体で使われた体育館では、住民の方は報道のカメラさえ入れるようなところにいらっしゃった。
広域避難・仮設入居が進まなかった理由
  • 広域避難がなぜ進まなかったかというと、まちづくりにも関わることだと思うが、コミュニティの強さが諸刃の剣となった。コミュニティが強いということは、団結していると同時に、 自分だけ広域避難することはできないと感じる被災者もいる。このような被災者に対して後から町内のホテルなどを開放したという現実がある。
  • 仮設住宅の入居が思ったほど進まなかったのは、利便性の他に入居の仕組みにも問題があって、県や国のガイドラインにより先に公有地、その後に共有地や私有地の仮設住宅を許可したため、 公有地の仮設住宅が当たっても、自分の地域にコミュニティ仮設ができると思い待っている人もいたという。
  • 隣接の内陸の町に巨大な仮設住宅ができた市町村も多く、そこに入居した人は以前の場所に戻って来ないのではないかという大きな不安がある。産業の面では、仮設店舗が続々とできている。

復興計画の支援について

石川 永子 氏
支援の内容
  • 4月から9月末まではほぼずっと、その後は月10日くらい現地にいて、復興計画の作成支援を行った。6月くらいまでは基本構想の骨子の編集や、復興計画策定の組織の体制図作成などで 初めてこういう仕事をする職員の方の補助をしていた。その後は、住民とのワークショップなどをお手伝いした。
  • 復興計画の基本構想の骨子のお手伝いでは、提案ではなく町の職員の方が描いているイメージを文章化することを心がけた。喜んでいただいたと思う。
復興計画の内容
  • 復興計画は市街地と漁村の2つの地域特性を勘案してつくられる。市街地の方では鉄道などの交通機関がポイントとなるが、これらが復旧するかわからず町の骨格が決められない中で 計画を作らざるを得ない状況である。
  • 市街地の復興では、山側が居住エリア、海側に水産業の産業エリア、その内陸側に商工業の産業エリアを配置する。市街地内に高架の道路を作る案もあるが、高架の道路を作ってしまったら、 観光客は市街地を通過してしまい町のにぎわいが生まれにくいという問題もある。
  • 漁村部に関しては、漁港と集落を集約するのかという問題と、移転先やコミュニティの問題という2つのポイントがある。集約について一番もめるのは地先漁業権についてである。地先漁業権とは 土地についた漁業権であり、それが移転や、集落の統合でどうなるのかといった問題がある。これは色々な市町村で起こっている問題で、集落移転の問題に住宅だけではなく漁業権が深く関わっている。 それに契約会、契約講も影響している。市町村と住民の窓口が行政区の長よりも契約会の会長というところもあり、集落全世帯の合意形成には時間がかかるという独特な問題もある。
  • 高台移転は、南三陸町のようなリアス式海岸はすぐ裏山があり、移転距離も短いので心理的な負担は少ないが、集落を集約するとなると、全く違う場所になってしまう可能性もある。
  • 意外なことに、漁師は早く造成されても困ると言う話もある。防災集団移転は基本的に計画ができてから2年で事業を終わらせなくてはならず、その後すぐに再建できる人にしか 土地を提供しないということになると、住宅を建設するお金が用意できない世帯もある。なので、港湾を早く直して産業の再生をすすめ、住宅はゆっくり土地の造成をしてくれという話である。
  • 沿岸部の人口は、今のままでは減るだろうと予想され、辛い決断だが、本当に帰ってくる人の人数分だけ作るということが重要だと思うし、現実、そのために住民意向調査を行っている状況である。
  • 復興計画を作る時に住民アンケートを行い、仮設住宅の集会所で説明会やどこの土地に移転するかの候補地について議論することもあった。
  • 意向調査では、高台に移転したい住民がほとんどである。全壊の方は9割がた移転を希望されているが、大規模半壊でどうにか直せる方は、半分以上は現地再建を望んでいる。 39条の建築区域をかける時にこういったグレーゾーンをどのように扱うかということが難しい問題だと思う。
  • 人口流出を少しでも減らそうということもあり、被災地の中学生を対象に復興計画を考えてもらうグループワークを行っている。
  • 最後のまとめとして、津波防災まちづくり法をどう使うかという問題がある。使い方をどこまで具体的に進められるかわからない部分があるので町でアイデアを出している。
  • 三次補正で防災集団移転事業の緩和もされている。ただ全額出るわけではない。全額出ると言われているが、細かい項目ごとに縛りがあり、パズルのような状況になっている。 どう復興したいかより、お金を使わない事業の組み立てが先にきてしまうのは、小規模沿岸部の市町村で膨大な復興予算が必要となるので仕方がない部分もある。

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