街に、ルネッサンス UR都市機構

この地の歴史と長岡の偉人たち

未来へつなぐ米百俵

この地の歴史と長岡の先人たち
私たちの住む地域の歴史や文化のルーツを見つめ直そう

1618年長岡開府

長岡城

譜代大名牧野氏七万四千石余の城下町長岡。
かつての長岡城の本丸は JR 長岡駅、二の丸はアオーレ長岡。
「城はなくとも夢がある」まちの創造は今も続いています。

1618年イメージ図 【長岡城本丸御三階櫓(模型・長岡藩主牧野家史料館に展示)】
 長岡城のシンボルともいうべき本丸御三階櫓は、本丸郭(くるわ)の西北の隅にあった。堀の水面から屋根の鯱鉾まで約23メートルの高さがあったといわれ、城下の隅々まで見渡せた。
 最上階の西側に唐破風の出窓があり、城下の人々は、御三階と親しみをこめて呼んでいた。

1868年長岡城攻防戦

北越戊辰戦争

「最後のサムライ」河井継之助は武装中立の道を歩もうとするものの、小千谷談判は決裂し、新政府軍に戦いを挑むことになりました。

1868年イメージ図 【河井継之助 ( かわい・つぎのすけ )】
 文政 10 年 (1827) 元旦、長岡藩士・河井代右衛門秋紀の長男として城下に生まれる。
 江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷に師事。長崎を見学して西洋の事情を知り、攘夷論に反対した。後に異例の昇進を遂げると、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げていった。
戊辰戦争では中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。軍事総督となった継之助は、巧みな戦術で敵を惑わせ、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。雪深い越後の小藩・長岡藩の名に、新政府軍も恐れ慄いた。
 しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。傷を負った継之助も、再起をかけて会津をめざすが、慶応 4 年(1869)8 月 16 日、塩沢村(現福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。
 幕末の風雲を駆け抜けた継之助の、生涯をまとめたのが司馬遼太郎の「峠」。読み進むうちに、継之助の手腕や思想に魅せられていく。

1870年国漢学校開校

米百俵の精神

戊辰戦争に敗れ焦土と化した長岡に三根山藩から送られてきた百俵の米。
小林虎三郎はこの米を国漢学校の開校資金にしました。

1870年イメージ図 【小林虎三郎(こばやし・とらさぶろう)】
 明治維新後の再興長岡藩大参事・文武総督。文政 11 年 (1828) に長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれ、藩校崇徳館の助教をつとめる。
藩命で江戸へ遊学し、佐久間象山に学ぶ。吉田松陰(寅次郎)とともに門下生の「二虎」と賞せられるが、幕府の開港政策に反対する建議が藩主に受け入れられず帰藩する。
 戊辰戦争後、敗北した藩の再建を担い、明治 3 年 (1870) に三根山藩からの救援米を国漢学校開設資金に充てる。
 明治 4 年に柏崎県から病気療養を命じられ、「病翁」と改名。東京へ移り、療養と文筆活動に専念する。
 明治 10 年、向島の弟・雄七郎宅で死去。著作に『興学私議』(安政 2 年)、『小学国史』(明治 6 年)などがある。

国漢学校ゆかりの地

市街地再開発事業の地区は、国漢学校の跡地『人づくりはまちづくり』という教育第一主義を今に伝える歴史的な場所です。

国漢学校ゆかりの地イメージ図 明治初期の大手通りの様子が描かれている小川當知筆「懐旧雑誌」

除幕式イメージ図【米百俵の碑・除幕式】
 昭和 50 年、国漢学校の跡地である大手通り 2 丁目に「米百俵之碑」が設置された。

米百俵プレイス(仮称)の立地図左の「知事様御住居」❶と「学校」(国漢学校)❷が「米百俵プレイス(仮称)」の場所。

1878年第六十九国立銀行(北越銀行の前身)設立

復興の恩人・三島億二郎

戊辰戦争で廃墟と化したまちで三島億二郎はランプの灯をかざし、まちの復興に尽力しました。

1878年イメージ図 【三島億二郎(みしま・おくじろう)】
 明治維新後の再興長岡藩大参事。文政 8 年(1825)に長岡藩士・伊丹市左衛門の二男として生まれ、のちに川島家の養子となる。始め鋭次郎、億次郎、億二郎。改名の由来は、浄土教の億万土の彼方にある浄土をさすらしい。小林虎三郎より 3 歳、河井継之助より 2 歳年長で、ともに藩校・崇徳館に学ぶ。北越戊辰戦争には軍事掛として参戦。
 戦後、姓を三島に改め、敗北した藩の再建を小林虎三郎とともに担う。廃藩置県後は柏崎県大参事、新潟県第十六大区長、新潟県古志郡長を歴任し、長岡洋学校(明治 5 年、現県立長岡高等学校)、長岡会社病院(同 6 年、現長岡赤十字病院)に、第六十九国立銀行(北越銀行の前身)などを開校・開設する。
 晩年は北越殖民社を設立し、北海道開拓に尽力した。明治 25 年(1892)、旧長岡城下の自宅で死去。日記は長岡市指定文化財(長岡市立中央図書館所蔵、長岡市史双書として翻刻・刊行)。悠久山公園の石碑建立にあたって「長岡復興の恩人」と称される。

(1)…長岡産業交流会館(通称・ハイブ長岡)内の長岡市産業展示室に展示されているランプ会のジオラマ

長岡洋学校の設立長岡高等学校の前身「長岡洋学校」は、明治5年(1872)11月23日、旧長岡城内の長岡藩政庁の建物を仮校舎として開校、翌明治6年5月23日、旧長岡藩筆頭家老稲垣平助の屋敷(現在の大手通交差点南西角地)を長岡洋学校の校舎としている。

長岡会社病院の設立商工便覧とは明治期の商家の様子や地域の名所などを紹介するもので、全国の各地域ごとにまとめられている。『北越商工便覧』は上下2巻で上巻は万代橋の図、下巻は親不知の図から始まる新潟県内の商工業の案内書である。長岡町63軒、与板町2軒が掲載されている。 紹介する図版は表五之町(長岡表町)の薬種商・平野屋太刀川善蔵の店舗。

1918年大正記念長岡市立互尊文庫開館

互尊思想の結晶互尊文庫

野本恭八郎は互尊文庫の建設・運営の資金を寄附しました。
互尊文庫は自らの人生を明るく切り開く人間を育てる、いわば「人づくりの図書館」です。

1918年イメージ図 【野本恭八郎(のもと・きょうはちろう)】
 長岡市の商人。嘉永 5 年 (1852)、上山藩領刈羽郡横沢村(現長岡市小国町横沢)の庄屋・山口家に生まれる。兄は実業家・政治家の山口権三郎。私塾三余堂、上山藩校明新館支館に学ぶ。
 20 歳の時、渡里町の商人・野本家の養子となる。長岡町会副議長、新潟県会議員、六十九銀行取締役、長岡町学務委員などを歴任。大正 7 年(1918)、長岡市に大正記念長岡市立互尊文庫を寄附。
 互尊思想を唱え、昭和 9 年(1934)に日本互尊社を創立した。昭和 11 年死去。「互尊翁」と呼ばれ、人びとの尊敬を集めた野本の肖像画は、画家・高村眞夫が描き、長岡空襲で焼失した互尊文庫の復興開館式(昭和 23 年)で掲げられた。

※このページの内容は、平成30年(2018)の長岡開府400年にあわせて発刊した『越後長岡ROOTS400』(編集:越後長岡ROOTS400会議、発行:長岡開府400年記念事業実行委員会)をもとに編集・再構成しています。

メニューを閉じる

メニューを閉じる

ページの先頭へ