街に、ルネッサンス UR都市機構

街みちネット 第3回見学・交流会「事業に参加した権利者からのお話 苦労した点、事業のポイント」

これまでの活動の紹介

活動議事録

事業に参加した権利者からのお話

(当時)建設協議会会長:堀井氏
  • 事業化以前は、この地域はほとんど借地だった。平成3年7月に地主さんが土地を返してほしいということになり、借地借家人組合を作って交渉を行うことにした。交渉の過程の中で、その年の暮れ頃に密集事業の存在を知った。
  • 最初は地主と借地借家人組合は緊迫した関係だったが、密集事業で地区の改善ができそうだということがわかってからは関係が改善され、平成4年の春には上尾地区に一緒に視察に行った。
  • 翌年、市に対して住環境整備のために力を貸していただきたいという要望書を提出し、平成5年から調査を行い、この事業に入った。そこまでは比較的テンポが早かった。
(当時)共同化部会副代表:中村氏
  • この地区は、元々は陸軍の兵舎があり陣地と呼ばれていた。高射砲の陣地と言われているが、実際にはサーチライトがあったと聞いている。
  • 兵舎長屋に、戦後、被災された方が入ってきたという特異な地区である。そのためこの事業を進めるにあたってもそれなりに複雑ないわくがあったのではないか。みなさんから個々の問題について何かご質問があればそれにお答えしていきたいと思う。

苦労した点、事業のポイントなど

(当時)(株)まちづくり研究所:岸岡氏
従前の状況
  • 従前は長屋の前は砂利道でそこを車が通っているような状況だった。 砂利道の部分は、地元の人の車やごみ収集車なども入っていたが、道路認定はしていなかった。
  • 長屋は北側にも南側にも増築されて軒先が1間~1間半せり出している。躯体自体は木造の昭和18年築の柱と梁を使っており、水道などを引いて生活していた。
  • 砂利道の南側が菜園で、戦後の食糧難の時に畑を作っていた。平成8年以降に地区に入った時には食料を作っている人はほとんどおらず、花畑として使っていたり地主さんに無断で子供部屋を増築したりしていた。周りの住戸が空いた時に買い増しして広く使っていた方もあり、従前住宅の広さは様々だった。
  • 北側にも菜園があったが、当時大蔵省が建物を勝手に払い下げたことで、地主さんが土地を市に寄付した。
権利者の事業参加の形態
  • 権利者のうち、従前の地主さん3人のうち2人は結果的に土地利用を何も図っていない。もう1者は市で集会所を建てた。借地権の35人は共同住宅建替え、コミュニティ住宅に入居、戸建て再建、付換地で土地だけ自宅の前に取得、転出など再建方法は様々であった。借家人は、2人はコミュニティ住宅に入り、3人は地区外に移転した。
  • 居住者の側面から見ると、従前の居住者は30世帯、従後は共同住宅が18戸と戸建てが6戸で、共同住宅の内訳は居住継続した世帯が11人、転入した世帯が7世帯である。
合意のポイント
  • ポイントは、地主さんにとっては権利の清算、借地人にとっては生活再建ができ事業後の生活がよくなるということについて全員が合意したことだった。 その選択は共同化、戸建て、転出など様々で、生活再建にも例えば子世帯との同居、世帯分離、高齢者の少人数世帯ではバリアフリー化などの希望があった。 居住継続した方は共通してここに住んでいたいという思いを強く持っていた。
  • 事業目標の「住みつづけられるまちづくり」について、「転出した方が多く住み続けられていないのでは」というご意見をいただくこともあるが、私達は個人の生活再建は達成されたと思っている。住み続けることが生活再建になる人は住み続けているし、権利を精算して、入院費に充当した、地区外の子世帯と同居するための頭金にしたという方もいた。
共同住宅について
  • 103号室は、隣の家はリビングになっている部分をテラスとして面積を調整し、増し床をせずに等価交換の範囲内で確保できた面積で設計した。
  • 205号室は、アール天井で四面採光、居住者は当時75歳くらいだったと思うが、 何かあった時に介助しやすいようにトイレにドアをつけないなどの希望があった。
  • 他にも床を上げた家、全部手すりを回した家などがあった。
地区の改善状況
  • 不燃領域率は8.5ha全体では4%向上した。
  • 空地は約1.7%、耐火造率が約2.7%増えた。(耐火造は実際に建設されたのは1棟だけなので。)
  • 老朽住宅は、この事業で40軒くらい除却しているが、事業期間が10年間あって、 圧倒的多数の住宅が10年経過したために全域で考えると老朽住宅率は若干減った程度だった。
  • 消防活動困難区域は、従前は地区の内側に6m道路が全くなく外周道路沿いだけだったが、完了時には地区内にも6m道路が整備されたことで半減した。道路率も約2%増加した。
  • 公園緑地率は目標値の103%を整備しているが、事業計画区域内では公園は実際には計画しておらず、緑地面積で目標を達成した。
事業を終えて
  • この地区ではまちづくり協議会をつくらなかった。建設協議会を組織したが、全体で集まって何か決めることはほとんどなかった。 当時のまち研としては、まず個人の判断を求めて、結果を全体に報告するという各戸対応をし、各家庭の主体的な判断を求めた。 みんなで何かを決めてそれに向かっていこうという働きかけをせず、共同の力を育てる取組みもほとんどしてこなかった。 現在、共同住宅は、管理組合で自主管理ができているが、共同の取組みについて積極的な仕掛けをしてこなかったという反省をしている。 それについて皆さんのご意見を伺いたい。

閉会の挨拶

NPO玉川まちづくりハウス 林氏
  • 東京とは場所柄が違うことが全体としていい効果を及ぼしていると感じた。東京のように高い土地代で事業を行うことが不幸な影響を与えることがあるのではないかと思うが、それがここではそういった影響を受けずに従前の住環境を改善することができたのではないかと思った。
  • 「用がなくても行きなさい」という所長さんのやり方は、居住者を中心としてその一人ひとりの状況に応じた進め方をしていくことが大切ということを考えて採られた方法だと思う。それと市役所の方の考えが生活者感覚であったことがよかったのでは。
  • 制度からというよりは現場の一人ひとりの状況と生活者の視点が共有できるということが大切で、岸岡さんが事業の間に子供が二人生まれたという話もあったように、地域に密着されたことがよかった。
  • 密集の整備手法の使い勝手がわかってきて使いこなす時代になっているので、機械的に1つの手法に押し込めてその制度の無理な仕組みを使って無理やり合意してもらうというのとは大分違う世界ができているのではないかと思う。
  • まちづくりはあまり大きな規模でやらない方が正解だと思う。大変な市街地もたくさんある中で、こういうその場所にあったものが少しずつできていき、少しずつ良い種が増えていくとよい。
会場の様子

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