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大手町の歴史

江戸期より続く日本の中心地としての歴史・文化の蓄積を活用

大手町の歴史

【古代】平安末期より将門伝説とともに─

平将門の首塚

大手町が歴史・伝説上の舞台に登場する出来事の一つとして、平将門にまつわる有名な「将門伝説」があります。9世紀半ばから10世紀にかけて起こった叛乱により、朝敵として討たれた将門の首が平安京まで送られ、東の市・都大路で晒されて三日目に首が夜空に舞い上がって数カ所に落ちたとされています。落下したもっとも有名な地が大手町です。将門の霊を鎮めるため祀られた首塚には石室があり、首塚のほとりには、「将門の首洗い井戸」と少し離れた地に「御手洗池」があったとか。関東大震災後、旧大蔵省建設のため、現在の千代田区大手町に「将門の首塚」の前にあった灯籠が移され祀られています。また江戸の総鎮守として尊崇されている神田明神は、天平2(730)年に安房国安房郡の漁師が海神をまつる安房神社の分霊を捧げて現在の大手町付近(江戸前島)に移住して祀ったのが起こりだとされています。この地に将門の霊を鎮めるために祀られたのは、天慶3年(940)以後のこととされ、江戸城増築に伴い、現在の外神田の地に遷座しました。

【中世】中世戦乱の時代の記録をとどめる遺跡が出土

中世の江戸城と城下に関して研究するために、江戸城下中世遺跡の発掘調査が行われ、中世戦乱期の遺跡も発掘されています。江戸城下東方に位置する遺跡から発見されたものでは大手町2丁目から出土した銅鐸があります。この銅鐸は一説には、太田道灌が戦利品として、江戸の地に運んできたものと推定されています。

【近世江戸Ⅰ】徳川幕府による近世江戸のまちづくりと江戸前島

家康入城当時の江戸図

徳川家康が江戸入府した当時は、日比谷から江戸前島にかけては浅い入江が江戸城のすぐ下まで入り込んでいて、入江の沿岸には漁師の家があっただけだったいいます。家康は江戸の都市計画に着手し、江戸城の城郭や都市建設、河川工事などを全国の大名に命じています。これは軍役と同等に扱われ、どんな命令でもやり遂げなければならないものでした。これを天下普請(大名側では御手伝普請)といいます。

江戸前島(大手町)での道三堀の開削は、沿海運河小名木川と江戸城を結ぶために掘られました。同じく半島状の江戸前島の根元を切り開いて、平川と石神井川の河口を結ぶバイパス水路としました。現在の気象庁(千代田区大手町)前のあたりから日比谷入江に注いでいた平川も、日本橋川流路に付け替えられました。慶長11年から翌12年にかけて日比谷入江の埋立がはじまり、江戸城と江戸前島が一体化しました。約70年におよぶ近世年江戸の建設は、おもに江戸前島を中心にして行われました。

【近世江戸Ⅱ】大手町一帯は大名屋敷が建ち並ぶ武家の町に

江戸一目図屏風 文化6年(1809)(津山郷土博物館蔵)

御手伝普請に従事した有力大名たちは、天下普請と並行して自分たちの宅地を得るために日比谷入江を干拓して大名屋敷を造りました。江戸城の正門にあたる大手門前には、譜代大名の屋敷が建ち並びました。
昭和4年4月15日まで、現在の千代田区(当時の麹町区)には道三町、銭瓶町、永楽町一~二丁目という地名があり、いずれも現在の大手町1~2丁目、丸の内1~2丁目にあった町名です。道三町は徳川幕府の江戸で最初の運河の名である道三堀からとったものです。大手町は日本の商業・文化の中心地として江戸の発展に重要な役割を果たしてきました。

【近代明治】近代日本の中枢となる官庁街としての大手町が誕生

麹町区図(明治40年、東京市十五区番地界入地図より作成)

新政府は武家地を処分するとともに、統一国家の建設に欠かすことのできない中央官庁建築のための官用地や、兵営・練兵場・軍需工場といった広大な敷地を必要とする軍用地の確保を行いました。東京府においては市中取り締まり強化のために戸籍改正を布達し、明治2(1869)年3月、江戸期から町の支配を行ってきた名主を廃止。新たに中年寄・添年寄、さらに町内の事務を扱う町年寄の役職を置きました。そして細分化していた町を生産や生活の単位としてまとめるため、市内を50区、市街を5区に分ける、「50区制」を施行しました。

明治5(1872)年の11月、府は7月の廃藩置県をうけて新たな東京府を設置し、府下を6大区に分け、さらに一大区を原則16に分ける大区小区制が定着せず、明治11(1878)年の11月2日に施行された郡区町村編制法によって東京の市街地に15区が編制された際に、大手町は、永田町・霞が関・宮城(皇居)・丸の内などとともに麹町区となりました。郡区町村編制法とは地方を画して府県に郡区町村を置き、区には区長1名を置き、区長には政府—知事からの命令を施行する職務を与えることから、区は自治的性格をもつこととなりました。こうして生まれた区の領域は、地形上に加え、従来の旧武家屋敷と町地、名主支配地域などを考慮して定められました。

こうした中で、大手町1丁目には内務省と大蔵省(現財務省)が建設され、大蔵省は木造二階建で、構内には大名屋敷の名残の庭や池がある風情でした。大手町2丁目には文部省(現文部科学省)、大蔵省印刷局(現財務省)があり、印刷局では紙幣や官報、切手、印紙、証券などが印刷され、明治30年には職工数1,680人を擁し小石川の砲兵工廠とならぶ屈指の大工場となっていました。

明治中頃の大手町

【昭和初期】土地区画整理事業にともない町名変更が施行

関東大震災後、復興事業の進展により街路、橋梁、公園などが次々と整備されるなかで、土地区画整理事業が実施され、これと並行して東京市は町名町界地番の整理・合理化に着手しました。その施行にはかなりの時間がかかり、大手町などは最も早く、昭和4(1929)年に町名変更が施行されました。こうしたなか、昭和7(1932)年、鉄骨鉄筋コンクリート造りの野村ビルヂング(旧日清生命館)が大手町2丁目に建設されました。

【戦後】戦後復興から高度経済成長、変わりゆく都心空間

日本の戦後の幕開けの舞台は千代田の区域でした。戦災と疎開のため、麹町区では七割方人口が減少してしまいましたが、残った人々はバラックにする材料さえない焼け跡の瓦礫の中で、戦後の生活の立て直しに必死に取り組みました。学校も復興され、昭和20(1945)年の年末にはあちこちの小学校で授業が再開され、復帰児童を迎えるための学芸会も開かれました。

市区改正においては15区が昭和7(1932)年の市域拡張後35区となり、昭和22(1947)年3月15日に東京22区に再編され、大手町のある麹町区は神田区と合併して千代田区となりました。新しい地方自治法のもと区議会が開かれ、戦後の区政がはじまりましたが、最初の大仕事は濠の埋立でした。町の復興の妨げとなる大量の燃え殻や灰で濠を埋め立て、埋立地を売却して復興資金に充てようという計画で、町の景観が大きく変化することになりました。

講和条約が成立し、占領が解除された昭和20年代後半から30年代のはじめにかけて、大手町から霞ヶ関にかけての一帯は、中央官庁街として、ビルの延面積の大幅拡張がはかられました。まさに高度経済成長時代の到来を象徴するものでした。ビル新築ラッシュによって丸の内・大手町地区の景観が大きく変化していくなか、霞ヶ関や大手町に分散していた中央官庁を統合して中央官衙街の建設を推進する計画が大きな進展をみせます。

昭和27(1952)年に政府が出した公告「霞ヶ関地区ほか二団地を対象とする中央官衙地区整備に関する計画」ほかで、都市計画として「霞ヶ関」の決定が行われ、他方、大手町地区には、各省庁の地方出先機関が合同庁舎内に集中的に配置されることになりました。この結果、同地区には広い遊休国有地が生まれ、それらは官庁施設整備の財源充当の目的で、民間企業へと払い下げられました。老朽化した役所が取り壊された跡地には、日本開発銀行や日本長期信用銀行の本社ビルをはじめとする金融機関、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞などの本社ビル、経団連会館、農協ビルなどが次々と建設されていきます。こうして大手町地区は、丸の内地区からつづくオフィスビル街として、その姿をすっかり変えることになります。

大手町地域(平成18年4月時点)

大手町地域(平成18年4月時点)

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