街に、ルネッサンス UR都市機構

団地はどこにあるのか

大山 顕(写真家)

第一部 団地に25年

(1)団地に住まない団地第二世代として、団地を愛する

今回のウェビナーで講演された加来さん、瀧口さんと違い、僕は団地で暮らしたことはないのですが、25年くらい世界の団地を巡ってきました。タイトルは「団地はどこにあるのか」という謎タイトルですが、団地の何が魅力的なのか、団地を愛する者のひとりとして意見を述べます。僕は写真家で、もともと工場の写真を撮っていて、「工場萌え」という写真集も出し、それと同時に、団地の写真も学生の時代からずっと撮ってきました。25年前というと、団地がダメだと言われていた団地不遇の時代でしたが、僕はどう見ても団地は素敵だと思っていたのです。僕は瀧口さんと同世代で、周りの友達は皆団地に住んでいたので、団地には楽しい思い出しかないです。僕らの親世代は、抽選を潜り抜けて憧れの団地を手にしたものの、その後のマンションブームや一戸建てブームがやってきて、団地はあまり……となっているのですが、僕ら二世には関係がないんです。僕らには子どもの頃の楽しい思い出がたくさんあります。僕が20年前に団地マニアとしてウェブで発表した頃は、団地に対する印象が一旦リセットされた頃だと思うんです。加来さんも瀧口さんも団地が好きな理由は、もちろん住んでいたこともあると思うのですが、世代もあるのかなと思いました。

(2)世界中の団地を巡って

日本だけでなく、世界中を周って韓国にも行き、ソウルに4泊して、その間ずっと団地を見ていて、ニューヨークでもロンドンでも見ました。ロンドンは近代都市発祥の地でもあるので団地もカッコよかったです。キエフにも行きました。共産国は、おそらくUR(当時の日本住宅公団)とのやりとりが研究者の間であったのではと言われていて、結構多摩ニュータウンに似ているなと思いました。香港にも一時期ガンガン通っていたんです。

ソウルの団地(撮影:大山氏)
ニューヨークの団地(撮影:大山氏)
ロンドンの団地(撮影:大山氏)
キエフの団地(撮影:大山氏)
香港の団地(撮影:大山氏)
(3)「団地団」として赤羽台団地へ

今回のウェビナーの大元である赤羽台団地も通っていて、スターハウスにもURさんに招待していただきました。建て替え寸前と建て替え中と建て替え後にお声掛けいただき、「団地団」という、団地をテーマにあらゆる分野から語るユニットのメンバーで伺いました。こういう活動を25年していると、何かある時に呼んでいただけるようになるのでうれしいです。

・独身棟

今はない独身棟も、お住まいだった方々全員が退去された後に見せていただきました。ここカレンダー貼ってたんだとか、テレビ置いてたんだねとか、住まい側の痕跡を見て盛り上がりました。独身棟なので、共同浴場があり、みんなで浴槽に入ったり、屋上にも上がらせていただき、非常に貴重な体験でした。赤羽は住んだことはありませんし、縁もゆかりもないですが、赤羽台団地には非常に思入れがあります。

独身棟(撮影:大山氏)
屋上の見学風景(撮影:大山氏)
・33号棟:団地で暮らした人は、他の団地で暮らした人と連帯できる

赤羽台団地からひとつだけ選んで無人島に持っていけるとしたらどれ?という質問がよくあると思うのですが、僕はスキップフロアの33号棟を選びます(笑)。赤羽台団地が素敵すぎて、図面のコピーをもらってペーパークラフトもつくりました。「団地団」メンバーに佐藤大さんという脚本家の方がいます。彼は団地生まれ団地育ちなのですが、見学中の彼のひと言が衝撃的で、僕は団地マニアとして一皮剥けました。彼が生まれ育ったのは埼玉の団地なのですが、33号棟に入って言った言葉が「懐かしい!」だったのです。団地は、25年前はダメだと言われていた時代で、ダメな理由は画一的で無個性が挙げられます。しかしそれは住宅が不足していた高度経済成長期に大量生産できるよう間取りを規格化するという大発明でした。その後のバブル期には、日本人は同一のものはよくないと勘違いをして、団地はダメとなりました。僕は規格化大量生産品が大好きで、団地の素晴らしさは規格化にあると思っています。そこまでは分かっていたのですが、大さんの話を聞いた時に、団地に住んでいた人は、他のまったく知らない団地に住んでいる人と連帯できると思ったんです。これは団地のひとつの大きな魅力だと思います。

33号棟の見学風景(撮影:大山氏)
33号棟の見学風景(撮影:大山氏)
ペーパークラフト
ペーパークラフト

第二部 ジャンクションから団地を見つめ直す

(1)川の上からジャンクションを見上げる

今日のタイトル「団地はどこにあるのか」の話をするために、もうひとつ僕のライフワークをお話しします。ジャンクションの写真を撮っているのですが、川の上を塞ぐジャンクションは醜いものだと言われていました。僕は個人的に船を出して下から見上げるのが好きなのですが、醜いという人ほど、川からの風景を見たことがないんですよね。

川からの風景(撮影:大山氏)
川からの風景(撮影:大山氏)
(2)ジャンクションで高低差を体感

他には、2階建てオープンバスを借りて、首都高速道路を2時間くらい走り回るイベントをやっていました。新橋演舞場から江戸橋ジャンクションに向かうコースはずっと楓川と呼ばれる川の底だったので、都市の下を走っていくわけです。江戸橋ジャンクションに近づくと30mくらい高低差があります。反対する人は、川を埋め立てるとは、なんてことだと言うのです。

(3)レイヤードシティ・東京を体現する日本橋川

僕がいちばん面白いと思うのは、槍玉に上がっている日本橋の上の首都高速道路ですね。地上部を解体して地下化することが決まってしまいましたが。なぜ面白いかというと、この川って人工の川なんです。昔、物流と人の行き来するためにつくられたのが日本橋川。つまり当時の首都高速道路なわけです。首都高速道路の上に街道が整備されて、昭和になって本当の首都高速道路が整備される。つまりここは各時代のインフラが地層のようになっているというわけです。東京がレイヤードシティであることを体現しているにも関わらず、人びとはこれを醜いと言っているわけです。でも僕はこれが東京の本質だと思います。

「阿波座ジャンクション」の写真のように大阪のジャンクションは東京のジャンクションよりすごくギュっとしていてかっこいいです。なぜかというと大阪は歴史が長いため、既に利用され尽くした都市の上に巨大な構造物が整備されているからです。「赤面山古墳」の写真は古墳の上に高速道路が通っています。東京都目黒区下目黒4丁目には矢印で示すように競馬場の跡が残っています。

大阪の阿波座ジャンクション(撮影:大山氏)
赤面山古墳(撮影:大山氏)
左:1931年の東京都目黒区下目黒4丁目の地図(出典:「今昔マップ」より) 右:現在の地図(出典:Googleマップ)

第三部 団地は団であり、地面にある

(1)土木と建築の間にある団地

25年団地を見てきて、団地とは何かを僕は考えてきました。僕が土木構造物の写真を撮っているのは、土木構造物は建築よりも規模が大きいからです。大きいと言うことは、地形や雨、気候を無視できないということです。僕は土木と建築の間にあるのが団地だと考えています。

(2)土地の歴史を残し続ける団地

団地は規制や地形や以前の用途を引き受けて折り合って成立している。そこが僕にとっての団地の魅力です。団地にはすべて前の用途が作り出した痕跡が残っていて、建築が変わっても残り続けます。

・武蔵野緑町パークタウン:変わらない地面

武蔵野緑町パークタウンがよい例で、建築は変わりましたが地面は変わっていません。空襲で狙われるような工場があった場所に野球場ができて、その後団地ができて、その子どもたちが野球をやっている。この連続は奇跡的だと思います。

画像@2021 Google、TerraMetrics、Airbus、CNES/Airbus、Maxar Technologies、Planet.com
左:1944年 中:1949年 右:1956年(出典:国⼟地理院「地図・空中写真閲覧サービス」 )
・赤羽台団地

赤羽台団地は、地形図で見れば分かるように岬のような地形の上に立っています。以前は、被服廠という軍隊の備品をつくって保管する場所でした。そのための鉄道の引込線があり、周りに軍用地がたくさんありました。引込線の跡は今も緑道として残っています。

国土地理院発行の2万5千分1地形図 大正6年測図(出典:「今昔マップ」より作成)

このように、団地には土地の持っている歴史が残りやすいわけです。なぜなら団だから。コンペに参加される方はスターハウスが残っていることに注目されると思うのですが、僕が審査員だったら、建て替わったこと自体も評価すると思います。加来さんや瀧口さんのお話のように、一旦団地から出てから戻ってくる、世代が入れ替わる、建物も建て替わる、という変化が面白い。僕が加来さんの話で面白いと思ったのは一旦活気がなくなったのに、次の世代がきて盛り上がり、建築も第二ラウンドに備えて建て替わっているということです。団地の写真を撮っていると、建て替えに反対しないのかと聞かれますが、僕は建て替えは大いに結構だと思っています。それが団地の本質だからです。だから、建て替えられた他の建物もどう活用するかを僕が審査員だったら見ますね。
赤羽台団地の前にあった被服廠も移転してきています。赤羽台の前は両国にあり、今は関東大震災と東京大空襲で亡くなった人を弔う東京都慰霊堂になっています。被服廠が移転した後は空き地だったため、関東大震災で焼け出された人がここに逃げてきて、何万人という人が火の手に追い詰められて亡くなっているのです。被服廠が赤羽台にやってきたことの意味を考えると、色々な場所と繋がっています。今も、赤羽台団地の並びは被服廠と同じです。

東京都慰霊堂(撮影:大山氏)
(3)団地は地面にある

瀧口さんが、なぜ団地に戻ってきたか分からないという話をしていましたが、団地に限定するから分からないだけであって、瀧口さんは多摩に戻ってきたわけです。加来さんは中登美に戻ってました。見慣れた風景がなくなるのは切ないかもしれませんが、そうであっても団地は敷地に残ります。団地はマンションや戸建て住宅ではあり得ない小さな都市として残されているからすごいのです。僕の結論は、団地は地面にある、そこの土地にある。ということです。

Q&A

松村 ありがとうございました。団地の不遇の時代についてのお話がありましたが、本当に世代によるでしょうね。建築の話ですが、僕より上の世代は大人になってから大阪万博を見ているので、批判的な人が多いです。僕は小学校6年の時だったので、非常に面白く感じました。団地も同じで、団地の価値を経験的に知っている世代が戻っている感じですね。すべてを敷衍して述べることは難しいですがそう感じました。ソ連のキエフの例が出ていましたが、共産圏の団地はすべてソ連の基準通りにできています。ソ連の有名な映画で、帰ってくる団地を間違えたが、部屋は同じで違う家族が住んでいるという作品がありました。懐かしくもあり、豊かな時代になると、画一的な住戸に批判的な人も多くなるのでしょうね。

大山 僕は戸建てやマンションも画一的なのになぜ団地だけが、と思います。

松村 1980年代頃に団地不遇の時代がきて、今は土地が持っているポテンシャルがすごいとなんとなく気付いている時代なのかなと思います。団地をポジティブに見る人たちが増えてきているタイミングだと思いました。

松村 大山さんが最初に意識的に団地の写真を撮ったのはどちらですか?

大山 実家の側の行田団地です。

Q:現代において規格化された団地の内側を見ることに価値はありますか?

大山 もちろんあります。当然です。

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