街に、ルネッサンス UR都市機構

豊かでエモい団地暮らし

加来 慎太郎(中登美アンバサダー/グラフィックデザイナー)
加来 真紀(中登美アンバサダー/カフェ・アンティーム店主)

第一部 中登美団地の今と昔

奈良市の中登美団地在住の加来慎太郎です。普段はグラフィックデザインの仕事をしています。妹の加来真紀です。アンティームという雑貨とカフェのお店の店主をやっております。普段僕らが暮らしている中登美団地で活動しているところを紹介します。中登美団地とは、奈良市にある奈良県最大規模の団地で、1967〜69年に建設されました。106棟、2,520戸の賃貸住戸があり、分譲も12棟、2戸がひとつになって建てられたニコイチ戸建分譲住宅も90世帯あります。1万人規模の小さな市のような団地です。地図を見ても分かるように、大阪と京都に隣接したベッドタウンです。

(1)1961年の中登美ヶ丘

1961年の航空写真です。当時は松茸が取れるくらい、風光明媚な場所であったと聞いております。少し下の学園前駅が開発途中の様子が写っています。今では住宅だらけです。

出典:国土地理院撮影の空中写真(1961年撮影)
(2)1975年の中登美団地

団地が建てられて数年後の1975年は、出来立てホヤホヤの団地で、草木もあまり生えていない状態です。

出典:国土地理院撮影の空中写真(1975年撮影)
(3)現在の中登美団地

現在は、周りも住宅が建ち、新しいマンションも建っています。こちらは、僕が先日撮ってきた団地の写真です。典型的な昭和の団地といった感じですが、見ても分かるように、結構な高低差があります。高いところから見ていると、低いところにも、向こうの高い所にも団地が建てられている感じです。団地の真ん中に行くにつれて低くなっています。

中登美団地(撮影:加来氏)
中登美団地(撮影:加来氏)

団地と団地の間が広く、緑も育っています。団地整備のJS(日本総合住生活株式会社)さんがいつも掃除をしてくださり、非常に気持ちのよいところです。
遊歩道もあり、団地外の方も散歩に来られます。

中登美団地(撮影:加来氏)
中登美団地(撮影:加来氏)

これは、団地の真ん中にあるグラウンドです。昔はここに行けば誰かに会えるくらい子どもで溢れていたグラウンドなのですが、今は寂しい感じになってしまいました。かつてはここでロケット花火を打ち上げて怒られた人がたくさんいました。僕もそのうちのひとりです(笑)。

中登美団地のグラウンド(撮影:加来氏)

これは団地の真ん中に通っている道路です。左がこども園で、団地ができた当初からあります。僕の娘も今通っています。右はショッピングセンターです。これが今言ったショッピングセンターです。シャッターが閉まったところが多い寂しい商店街となってしまっています。

団地の真ん中に通っている道路(撮影:加来氏)
ショッピングセンター(撮影:加来氏)

これが、後々ご紹介する集会所前広場です。僕らが中登美団地でイベントをするきっかけとなっている場所です。

集会所前広場(撮影:加来氏)

僕らが中登美団地に住んだ経緯をお話しします。僕らは東京の墨田区生まれです。1988年には奈良に引っ越し、1991年に中登美団地へ引っ越してきました。僕が中学1年生の時です。そこから中学校と高校を経て、1998年ごろ、進学や就職で団地を離れました。その間は、母がひとりで団地に住んでいましたが、2011年に、再びみんなで団地に戻ることになりました。東日本大震災や、東京での仕事が辛かったこと、子どもが生まれるというタイミングでもあり、色々と考えた結果、団地へ帰ることになりました。妹の真紀は離婚をしたため、子どもを連れて実家へ戻ってきました。母親のお店の移転が決まったのも2011年です。
お店の写真はこちらです。中はこのような感じです。この店舗も、ニコイチ住宅の1軒です。

カフェ・アンティーム(撮影:加来氏)
カフェ・アンティーム(撮影:加来氏)

第二部 団地の活気を取り戻す

戻ってきてまず思ったことは、「団地に活気が無い!」。このひと言です。僕らが育った頃は、団地は抽選でないと入居できなかったり、ショッピングセンターや公園、グラウンドに行けば誰かがいて遊べましたが、今は高齢者が多いです。やはり、空室が目立つ、団地内の少子高齢化、設備の老朽化、空き店舗が増える、それから、以前は団地の中で買い物ができていましたし、団地の外からも買い物に来る人がいたのですが、今は団地から外に買い物へ行くようになっています。

(1)マルシェの開催

僕らは集会所を使ってマルシェをすることになりました。団地の人とフリーマーケットをしたり、お店に来てもらったりして、団地の中の繋がりもできました。何回も開催できて楽しかったです。

マルシェの様子(撮影:加来氏)
マルシェの様子(撮影:加来氏)
(2)中登美アンバサダー発足

そんな中、URさんと仲よくなるという出来事が起こりました。色々やっていると、「あいつらいいことやってるじゃん」とURさんが声をかけてくださり、担当の方がうちの店に来て、色々な話をするようになり、団地を盛り上げることを何かしようということになりました。中登美アンバサダーはそんな中で発足することになりました。中登美アンバサダーとは、中登美団地を愛する人であれば、中登美団地に在住でなくても一緒に参加して、団地を盛り上げるイベントなどをやっていただく方のことです。

(3)モニュメントの再生

中登美アンバサダーとして最初にやったのは、団地の西側にある色褪せたモニュメントの塗り替えです。僕はグラフィックデザインをやっているのでデザインを担当することになったのですが、そこで思い浮かんだのが金鵄(きんし)のデザインです。金鵄というのは、登美ヶ丘という地名の由来です。日本書紀に初代天皇である神武天皇の物語があるのですが、そこに、金色に輝くトビが降りてきたという話があります。そのトビが、この土地なのではと言われています。その「とび」が登美ヶ丘や隣町の富雄などの地名の由来とされています。これは僕も団地に帰ってきてから知りました。それまでは奈良は平城宮跡や大仏はありますが,それ以外は何もない単なる新興住宅地であると思っていたのですが、この話が本当であれば、神武天皇が即位した紀元前のことに繋がります。僕のこの話を広めたいという思いと、URさんが盛り上がってくださったこともあり、このようなデザインになりました。隣に写っているのが僕です(笑)。これが結構好評でした。

団地の西側にある色褪せたモニュメント(撮影:加来氏)
現在のモニュメントと加来氏(撮影:加来氏)
(4)夏祭りの開催

中登美アンバサダーができる前から、自治会がやってくださっていた夏祭りが突然なくなりました。アンバサダーになった僕が自治会長に問合せたところ、「夏祭りは今年もやらないから、やるなら独自でやってくれ」と言われ、思わず「やります」と返事をしてしまいました。自治会の問題は全国どこでもあると思うのですが、団地でも高齢化やなり手不足で機能しなくなってきていました。ただそれが逆によく、中登美アンバサダーでやりたいことをやれました。まず出店者を集めないといけなかったのですが、アンティームのカフェがあったので割とすぐ集まりました。場所もURさんに交渉して借りることができました。
いちばんの問題は資金でした。寄付を募り、周りのお店から協賛を募りました。もうひとつ重要なのが、金のトビのTシャツです。先ほどのデザインを手刷りで一枚一枚Tシャツに刷りました。TOMIのトートバッグやマグカップもつくりました。無事資金が集まり、無事祭りも開催され、結果、大大大盛況でした。この地域にこんなに人がいるのか、というくらい、団地の外からもお子さんを中心に来てくださり、大盛況に終わりました。祭りのよい点は、老若男女が飲んで食べて歌って踊って経済を回して、人を鼓舞するパワーがあることです。

金のトビのTシャツ(撮影:加来氏)
TOMIのトートバッグ(撮影:加来氏)
夏祭りの様子(撮影:加来氏)
夏祭りの様子(撮影:加来氏)
(5)餅つき大会の開催

冬になると餅つき大会です。これもかつては自治会の方がやってくださっていました。節分の季節にやったので、集会所の2階から、鬼の仮面をかぶって子どもたちにお菓子をばら撒くということをやりました。JSさんが協力してくださり、これも大盛況でした。URさんとJSさんには感謝しかありません。

餅つき大会(撮影:加来氏)
(6)蚤の市の開催

また、春と秋には蚤の市というフリーマーケットやマルシェのようなこともやっています。今はコロナ禍でできていませんが、またできればよいなと思いながら過ごしています。

(7)遠隔アンバサダー

アンバサダーの活動をしている時に、お店にA4の用紙にびっしりと文字が並んだ手紙が届きました。差出人はかつて団地に住んでいた今は静岡在住の50代の男性でした。「皆さんの活動を見て感動しました」という熱いお手紙でした。その方が、イベントの度に、静岡からご自慢のスカイラインに乗って泊まりがけで奈良までやってきて、イベントを楽しんでくれていました。僕らは彼のことを「遠隔アンバサダー」と呼んでいます。

第三部 豊かさへと繋がる衝動が「団地愛」となる

若い時には団地にいても気がつかなかったことがいっぱいあります。その頃は都心に行きたいと僕らも思っていました。しかし、団地に戻ってきて10年が経ち、自然も多く鳥や虫の鳴き声が聞こえて、四季を感じる場所のよさを感じます。これは地元では有名な桜並木です。真ん中の道路では紅葉もとても綺麗に写ります。

桜並木(撮影:加来氏)

そんな中、中登美アンバサダーで、URさんとJSさんの協力を得ながらイベントをやってきて、団地の中と外、地域と地域、人と人との繋がりはまだまだあるじゃん!エモいじゃん!と団地のよさに気付いて10年が過ぎました。都会や田舎にもないエモくて豊かな魅力が団地にはあると思います。ただ、その豊かさを生かすのは人次第だと思います。よい環境が揃っていても、人が動かなければ意味がないですよね。僕らは団地が廃れていたからこそ立ち上がれましたし、豊かさを再確認できました。自治会が夏祭りをやらなくなったからこそ、僕らは立ち上がれましたし、そんな中、URさんやJSさんとの協力体制ができて、よい流れになったと感じています。団地でも都会でも田舎でも、住む人のあり方が豊かさに繋がると考えています。結局、自分たちの住む場所で楽しく暮らしたいという衝動が、豊かさに繋がるのです。それを周りの人が見た時に、「団地愛」という表現になったのではないでしょうか。古い団地なので、自治会存続や老朽化など、問題点はありますが、新しいアイデアはそうした変化の中から生まれるのではないでしょうか。栄えて廃れて、そこからまた盛り上がる、というのを人間は繰り返して学んで成長していくのではないか、ということを、僕らは団地から学ぶことができました。ありがとうございます。

Q&A

Q:今後の活動はどのようにされるのですか

松村 今後の活動はどのようにされるのですかという質問がきています。「人」次第と言うお話でしたが、アンバサダーや仕掛けているお仲間はどのくらいの年齢層の方がどのくらいいらっしゃるのですか?

加来慎太郎 きっちり決まっているわけではなく、緩く始まりましたので、僕らのママ友や、元々団地に住んでいたママ友、団地に住んでいて僕らの活動を応援してくださっている方など、最初は6、7人くらいでした。年齢は僕らの世代(30、40代)が中心ですが、団地にお住まいの50代の方もいらっしゃいます。

Q:メンバーは増えていますか?

加来慎太郎 アンバサダーを増やすつもりはなく、やりたい人がいれば入っていただくというかたちをとっています。

加来真紀 イベント当日のボランティアスタッフは募集しました。出店者への連絡やチラシづくりなどは、8人くらいでやっています。

松村 「金のトビをデザインしているのアンタかいな」となるわけですね。

加来慎太郎 色々なイベントをするので、おじいちゃん世代にも子どもにも声をかけられるようになりまして、悪いことはできなくなりました(笑)。

Q:夏祭りを始めた行動の原点はなんですか?

松村 今までの話からすると、あまりにも寂しいからということでしょうか?

加来慎太郎 青春時代を団地で過ごしていて、夏祭りの淡い思い出がなくなってしまい、子育て世代の僕らとしては寂しいなという思いがありました。僕らはお店をやっているので、スムーズに進んだのかなと思います。

Q:ここからどのような仕掛けを企てようとしているのですか?

加来慎太郎 コロナ禍では、中登美アンバサダーは無理はしないという方針ですので、やれる時が来たらやろうということになっています。

Q:分譲住宅の方も意欲的に参加されていますか? そのために工夫されていることはありますか?

加来慎太郎 分譲住宅と賃貸住宅は自治会が違っているため、別れてはいます。ただ、祭りやイベントの参加者である豆腐屋さんが分譲に住んでいました。保育園のママ友でもあり、分譲、賃貸で分け隔てなく、団地外の人もきますので、気にせずやっています。


メニューを閉じる

メニューを閉じる

ページの先頭へ