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葛西城址

葛西城址 ~青戸七丁目地区がもつ歴史~

当地区には、豊かな歴史の蓄積があります。その象徴として、「葛西城址」を取り上げました。

出典:新編武蔵風土記稿 (国立公文書館所蔵)

古墳時代から人が住み続けている場所

地区周辺は、遺跡があるとされる「御殿山遺跡・葛西城址」地域に含まれ、この周辺には、弥生時代から近世までの遺跡が存在するとされています。実際、周辺では古墳時代の集落跡の遺跡が見つかっています。

昔から交通の要衝であり、人々が行き交う場所

「青戸」の「戸」は本来「津」であり、「港津」を表す水上交通の要所につく地名だそうです。「青戸」は、室町時代には葛西と呼ばれる領域の政治・経済の中心地として「亀有」とともに栄えていました。
つまり、「青戸」は中世葛西の政治・交通の中心地であり、葛西の要だからこそ、青戸にあっても「葛西城」と呼ばれていたのです。
これは偶然かもしれませんが、現在でも、環状七号線と国道6号線(水戸街道)の交差点があり、成田空港と都心・羽田空港を結ぶ鉄道が通るなど、交通の要衝としての地区の性格は失われていません。

御殿山公園
想定縄張図

葛西地域の中心地としての葛西城

その最初期の築城者と築城時期は、明らかではありません。ただ、室町期(1450年代以降)には、上杉氏や後北条氏の拠点となったとの記録があります。そして、天正18年(1590)秀吉の小田原征伐に伴う後北条氏滅亡で廃城されました。
その後、江戸に幕府を開いた徳川氏が「青戸御殿」を建て、徳川三代将軍家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されていましたが、この御殿も延宝6年(1678)に取り壊されたとされています。
環状7号線の建設に伴い大掛かりな発掘調査が行われており、葛西城の本丸跡の遺構が確認されています。その本丸は、現在、環状七号線により葛西城址公園と御殿山公園に分断されています。

葛西城址公園
葛西城址公園

このように青戸七丁目地区は、歴史の蓄積が見られる都内でも有数の場所であり、豊富な歴史資源を保有しているまちとなっています。


本ページは、葛飾区資料など各種資料を参考にUR都市機構で構成したものです。内容について、お気づきの点がございましたらUR都市機構までお知らせください。

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