街に、ルネッサンス UR都市機構

第7回都市再生フォーラム パネルディスカッション

パネルディスカッション

テーマ1:東日本大震災の衝撃、UR都市機構への期待

山﨑 ありがとうございました。3人の方にご発言をお願いしましたが、これから皆さんで話し合いを進めていきたいと思います。今日はパネリストの方に、大学の研究者の方が大変多くなっていらっしゃいますので、会場の皆さんとともに、壇上にいらっしゃる皆さんの、主な専門分野を確認させていただいたほうが、話が聞きやすいのではないかと思います。
 福屋さんは、建築家の立場からのご発言をお願いします。中井先生は、都市計画が主なご専門です。それから、中林さんは都市防災、大西さんは国土計画ということでご発言をお願いします。もちろん、それぞれの皆さんかお持ちの分野以外でも、ご活躍でいらっしゃいます。
 まず、基調講演のあと、ずっと聞く立場にあったお二人の方にお伺いします。東日本大震災というのは、大変、いろいろな立場の方に衝撃を与えましたが、野田さんは行政の責任者、被災地のトップとして、どのような衝撃をお感じになりましたか。

パネルディスカッションの様子1

野田 いろいろな思いをしたわけですが、一番の衝撃は、人は死ぬということです。当然のことではございますが、被災直後は、毎日が死との向かい合わせといいますか、家族の安否を尋ねてくる方々、道端でどんどん遺体が発見されていく、あるいは、あちらこちらでいろいろな方々が亡くなられるという状況でした。そういう中であらためて、人は死ぬものであり、いつ死ぬか分からないということを目の当たりにしました。今回のように大勢死ぬ時もあります。それだけこの自然というものは恐ろしく、それを超越した存在でした。私としては、これほどの自然現象は経験がないものですから、あらためて意識の変化というか、人生観が変わるのを感じました。行政の長としての情報伝達や、さまざまな場面での教訓、反省はございますが、まずは人の死というものを、強く感じました。

山﨑 大西さんは東日本大震災のあと、国の学術会議も含めて、防災から減災へという考え方を出しました。今まで高度経済成長の時代を中心に、ずっと防災ということが、研究者も含めて進められてきましたが、研究者の立場として、東日本大震災の衝撃を、どのように振り返っておられますか。

大西 ご紹介いただいたように、私は国土計画というのが専門分野です。国土計画は都市計画の一分野と、大きくとらえられています。したがって、都市が研究対象です。一番大きい衝撃は、その対象としている都市が非常にもろく、壊れてしまったということです。そういう点では、都市を作る関係分野にいるということで、いわば被告席にいるわけですが、学者として原子力工学の人たちも、同じ被告席にいます。われわれは同様に反省すべき立場ですが、なんとなく3.11以降の状況を見ると、彼らのほうがより厳しい立場にあって、われわれはこれからのコンストラクションにかかわるということで、期待される立場にあります。そういうことに、少し居心地の悪さを感じながら、責任もそれだけ重いと思っております。

パネルディスカッションの様子2

 私はたまたま最初、隣の野田市長さんの釜石市に、4月1日にお邪魔しました。釜石市には甲子川という川があり、そこの橋を越えると被災地に入ります。入ってすぐの被災地の状況は、1階は水が抜けて2階が残っているという、半壊の建物が多かったのですが、だんだん先に進むにつれて、完全に流されているところも出てきました。それから大船渡や高田に行くと、ますますひどい状況になっていました。ですから、その都市が壊れるという状況を見て、自分たちが計画してきたものの大きな問題点というのを、強く感じました。
 そこが防災なり、減災というところに行くのですが、防災から減災に変えると、なんとなくスタンスを弱めたようなイメージですが、これまでも防災ができていなかったわけではないと思います。その上で、減災という言葉をこれから重要だと感じているのは、やはりもう少し、自然を相手に、何を守って、何が守り切れないのかということを見極めることで、守るべきものについては、よりきちんと守っていこうというように、進化させることにつながると考えています。

山﨑 私も震災以降、いろいろな議論を聞いたり、いろいろな国の検討会を傍聴したりしなから、やはり、減災を進めるための防災というか、コンクリートの役割も大きいと感じました。UR都市機構と釜石市が、今年の3月に協定を結びましが、これは、どういうことを期待しているのでしょうか。野田さん。

野田 市の職員が、釜石市の場合400人いるのですが、そのうち100人ぐらいが被災しています。正直なところ、仕事に専念できる環境ではない中で、精いっぱい頑張ってまいりました。今回、復旧、復興に向けた取り組みの中で、最大のテーマは、人です。先ほど、死や意識について話しましたが、そこに住む人たちが、どういう考えで、どういうかたちで生活するかということと、建物や土地の面を考えなくてはいけません。
 行政はどちらかというと人にかかわる部分が多いのですが、建物や土地利用については、非常に経験者が少ないです。そのような中で被災し、土地利用についてシミュレーションし、安全な場所はどこであるのか、どんな建物であれば安全であるのかを考えると、なかなかわれわれ一般の行政職では、難しいところがございます。

パネルディスカッションの様子3

 そういった面があるので、まず、都市計画の方向性を示していただく必要があります。それから、住民の皆さんとの接触の中で、そういった経験や実績のある方々に、いろいろ協力していただくというのは、非常に大切なステージです。実は、UR都市機構の方には、釜石市職員として来ていただいています。現在、2人の方が在籍しており、非常に大きな役割を担っていただいております。
 今後は次のステージとして、事業計画に移ります。いわゆる防災集団移転事業や、土地区画整理事業という、次の段階に入っていかなければなりませんので、そういった面でも、いろいろと協力していただきます。最終的には、実際に公営住宅を作るとか、そういった面まで協力をしていただきたと思っております。われわれとしては、非常に大きな役割を担っていただいていると思っています。
山﨑 皆さんのお話を伺っていると、都市機構の役割は大きく、期待も大きいという発言を、何人かの方がなさっておられましたが、大西さんは都市機構の役割について、どのように見ていらしゃいますか。
大西 私は、国の組織として、こういった緊急時に、公的な使命を持って携わるグループがいるというのは、大事なことだと思っていました。理事長の話ですと、実際に釜石市をはじめとして、都市機構の皆さんが170名入っておられ、復興に非常に役にたっているということです。
 それはそれとして、これからの復興の過程で、1つ注文があります。都市機構の皆さんは専門で、区画整理を手掛けるほか、防災集団移転促進事業というのは、あまり経験はなくとも、類似の事業についてはベテランの方が多いので、そういう点では戦力です。しかし、復興は、被災地の方々との合意形成が重要であり、要望をくんで、長続きするコミュニティーとして再建させることが大事です。また、人口が減っていく中で、個々のコミュニティーを復興しても、なんとなくそれぞれのコミュニティーが立ちいかなくなってしまっては意味がありません。 ですから、今までにない高いハードルというのが、いくつかあると思いますが、それは現場でやっていかないと分かりません。ちょっと口幅ったいのですが、今まで培ってきたノウハウを現場に持ち込むのは当然として、現場でさらに学んでいただいて、現場となる被災地の復興に合った新しい方法を見つけて、それを制度化していってほしいと思います。つまり、今まで出来上がっている制度を適用するのではなく、それらを参考にしながら、必要な制度を作っていくという、そういう役割を、ぜひ果たしていただきたいと思います。

テーマ2:復興の現場の課題

山﨑 現場で学んでという言葉がありましたが、では、今、現場である被災地にどんな課題があるのでしょうか。これは皆さんにお伺いしたいと思います。まず福屋さんは、アーキエイドの取り組みで、ずいぶん現場に入っておられますが、今の現場の課題を、どのようにとらえて見ておられますか。

福屋 非常に難しい話題ですので、順番にお話しいたします。私は建築を専門としておりますので、事業計画については全く知りませんし、サポートに入っているメンバーも知りません。行政の方であっても、詳しい人も入れは、そうでない方もいらっしゃいます。そういった中で、町の構想図というものを描いていくわけですが、それを事業化していくという中で、非常に困難がこざいます。それはぜひ、専門家の方と調整しながら進めたいと思っています。
もう一つ、行政の方は、よくアンケートを行いますが、それを見ていて私が思うことがあります。住みたいですか、住みたくないですか、公営住宅に行きますか、ということは、もちろんお聞きする必要はありますが、どういう町になるかというイメージをつかめないままアンケートをするのは、なかなか回答が難しく、お住まいの方も決められないであろうと思います。そういう意味でも、行政の方がお示しするのは難しいでしょうけれども、大まかでも町がこうなったらいいというイメージを、みんなで囲みながら進められる方法があればいいと考えております。
そのために、例えば県道事業がこうなるべきであるとか、そういったことはおいおい詰めていかなければいけませんが、まずはイメージを共有する方法を、一緒に考えていけたらと思っています。

パネルディスカッションの様子4

山﨑 何人かのご発言の中に、土地利用の話がありました。これから高齢化が進み、人口もそれほど増えない。建築のお立場から、土地利用と建築物を、どのように見ておられますか。

福屋 通常だと建築は、土地利用の計画ができたその上の、上物と呼ばれます。当然付随するものですかから、建てていいところもあれば、いけないところもあります。それを決めるのは、土地利用だと理解しています。今であれば、地盤が沈下していますから、地盤をかさ上げしない限り、何も建てられません。しかし、住民の方に見えてくるのは、その地面ではなく、その上の町並みです。ですから、ゾーニング図と住民の方がイメージする町をつなぐような経路が、おそらく必要ではないかと思います。

山﨑 中井さんは、陸前高田に長期にかかわっておられるということですが、今の課題をどのように見ておられますか。

中井 なかなか上物の建設までいかないのが現状です。そこにいくまでに、非常に長い時間がかかっていて、防潮堤は5年ですし、かさ上げも2、3年はかかる込みです。土をどこからか持って来なくてはいけないという課題あります。行政や、私もお手伝いしながら考えているのは、復興機関を8年と設定していますが、長期的、恒久的に町をどうしていこうかということです。住民の皆さんにとっての、今日、今月、今年というところが、行政の計画からポッカリと抜けてしまっているように感じます。例えば商店をやられている方々は、多少の危険性は覚悟の上で、仮設店舗でもいいから、同じ場所で早く商売を再開したいと考えています。ですから、そこのすり合わせが、なかなかうまくいっていないというのが現状です。行政が長期的に復興を考えている間に、民間では、自力で再建されている方がたくさんおられます。その間の調整に、非常に苦労しております。行政のほうでも、安全の看板を、そう簡単に降ろすわけにもいきません。できれば早く、一地区でもそういうことを始めたいと思っておりますが、そうすると今度、ほかの地区との公平性の問題が出てきます。ですから、全体を見ながら、短期的な話と長期的な話について、時間軸を調整していくことと、早期に復興を着手する場所、もう少しあとに着手する場所の調整することが、今非常に悩ましい課題です。

パネルディスカッションの様子5

山﨑 現場を取材していると、住民との合意形成を進めるのは、非常に大変であるということを痛感いたします。一地区でも早く姿を見せるということと、公平性、それから、その地域住民との合意形成について、何か良い知恵はございますか。

中井 いい知恵があったらこちらが教えていただきたいですが。高田と今泉というのは、いわゆる町でして、それ以外のところは漁村集落ということになります。ここは今も28地域で協議会が立ち上がっていて、さらに10地区ぐらいで協議会を立ち上げ、高台に移転するのか、元の場所で堤防を高くして生活をしていくのかといった議論を行っています。協議会はどちらかというと、高台移転を前提としており、みんなで移転するといことで合意形成を進めてもらっています。これはもう、個別に丁寧に、専門家にも話を聞きながら、話し合いを進めるしかないのではないかと思っております。
 それから、高田と今泉という大きなところの合意形成は、まだまだこれからです。私はやはり、モデル地区的なところは、もちろん合意形成も必要ですが、こういった町ができるというシンボル的な意味合いも込めて、まず、行政が積極的に完成イメージを見せる方法もあると思います。被災された方の中にも、まだどこに住もうか揺れておられる方や、条件次第で住む場所を決めたいという方もおられます。そういった方々に、新しい町の姿を見せることで、1つの方向に収れんさせるような方法を、考えていけないものかと思っております。
 そういう意味で、福屋さんの言われたように、物が持っている力というのは非常に強いので、こういうものができるというイメージを見せるのは、合意形成に前向きに働くのではないかと期待しています。

山﨑 野田さんは現場の責任者ですから、課題ということでお話を振ったら、多分、たくさん出てくると思いますが、今日はまちづくりに絞って、今の課題と、これからのまちづくりに対するお考えを教えていただけますか。

野田 実は、避難場所に皆さんが避難していた時から、いろいろと将来のまちづくりについて、皆さんと話をしてきました。最初はまちづくりの話にはなりませんでした。いつ仮設住宅に入れるのかとか、支援物資はいつ届くのかという目先の問題が山積みで、とても将来のまちづくりについて、話をする状況ではありませんでした。それが徐々に、日を追うごとに、いろいろな話ができるようになってきました。去年の8月に、仮設住宅に入って一定の拠点が得られるようになり、それからようやく、次はどうするのかという話ができるようになりました。仮設住宅に入って住民はバラバラになりましたが、今年の3月までに、地域ごとに集まってもらい、話し合いの場を設けてきました。
 そしてやっと、土地利用として、ここは防災集団移転促進事業でやろうとか、ここは区画整理でやろうという話で、大筋で合意をしてきました。しかし、これはあくまでも、たまたまその話し合いの場に来てくれた方々のみの合意です。合意をされたどなたが地権者で、どなたが商売をやっているのかは、その時点では全く把握できませんでした。ようやく、それが把握できるようになりましたので、今やっと、個別に案内を出せる段階になりました。ですから、これから地権者の皆さんを交えて、あらためて事業の是非を問うということと、当然ながら、将来の町の絵を、みんなで描いていこうという話になっています。
 ただ、結局はどのような絵を描こうとも、それを作るには財源が必要です。実はそこが肝心要の課題です。今年の3月末に、第一次の復興交付金事業が開始になりました。つまり、今回の復旧、復興に向けた取り組みの財源は、ほぼ全部、その交付金事業となります。その交付金事業は、国と地方で協議をして決めることになっています。その流れの中で、やっと第一次が3月の末に開始し、4月にまた第二次と続きます。
 例えば釜石市の場合は、第一次の3月末に135億、第二次で約140億が交付されました。以降、三次、四次で、500億なのか1,000億なのか、どこまで国が認めてくれるか分かりませんが、そういうふうに、大筋で合意が得られれば、次は財源の問題が発生します。もし財源が認められなければ、また地域の皆さんと話し合いをして、変えていかなければなりません。その作業をこれから進めていくということですから、合意形成が非常に難しいことも、課題の1つです。
 合意形成の難しさには、地権者の問題もありますが、1つには被災者それぞれの立場があります。家も家族もすべて流されてしまった方もあれば、あるいは土地だけを所有し、自身は被災していない地権者もおられます。こういったさまざまな立場の方たちがいるということです。ですから、それぞれの立場の、いわゆる温度差の中で、合意形成をしていかなければならないという大変さが、今後も続くであろうと感じています。

山﨑 中林さんは、過疎化、高齢化が進んでいく中、活性化しながら規模を縮小していかなければならない可能性を話されました。それを織り込み済みで、復興を進めることの難しさがあるというお話がありましたが、これは具体的には、どういうふうに進めれば良いとお考えですか。

中林 答えがあるわけではありませんが、現場にかかわっている状況の中から見ると、頑張れる人にどれだけ応援するかということだと思います。行政という立場に立つと、どうしても公平という話が出るのですが、こういう場合の公平というのは、ほとんど足を引っ張る公平になってしまいます。
 したがって、元気のある若い人が、こういうことをやってみたい、ああいうことをやってみたいということを、それが5年後、10年後、地域にとって重要な意味を持つことになるなら、たとえ不公平になってしまっても、どこまで応援することができるかにかかってきます。直接応援することができなくても、陰ながらでも応援する。あるいは、民間のさまざまなファンドを基に、そうした活動がどんどん芽生えていく。そういうことが、活力を取り戻したり、維持したりする上では、何よりも大事ではないかと思います。そうした動きが出てくることで、みなし仮設に入っている若い世代の方が、もう一度町に戻って来ようという、きっかけづくりになると考えています。そうすると、若い被災者が戻って来て、活力の基盤ができてきます。

パネルディスカッションの様子6

 そういう意味で、今、時間の流れのロードマップが、全体に見えない状況にあって、この先どうなるのかという不安で、自分はどういう復興をするのかという意思決定ができない状況があります。その中で、多分、若い人を中心に、自分は こういうふうに復興したいという思いを、社会や地域がどこまでバックアップして実現していけるのか、そういう先進的なプロットタイプを生み出していく時期が、この1年ではないでしょうか。

山﨑 災害というのは、その地域にもともと潜在化していた問題を表に出して、それを加速させるという特徴があると思います。今回の被災地の中には、もともと、過疎と高齢化が進んでいたところがあって、そこに今回の震災が追い打ちをかけるかたちになりました。そうすると、今の中林さんのお考えというのは、これからの日本の、いろいろな地域が抱える、災害の問題に共通してくるテーマという位置づけもできるのでしょうか。

中林 はい。まさにそう位置づけるべき課題ではないかと思います。これから災害を迎えなければいけない、東日本以外の地域でも、状況は同じであると思います。次の災害に向けて、もう少しやるべきことをやろうという人の、少なくとも足を引っ張らないように、ぜひやってもらうような動きを、作っていかなければなりません。
 要は、すそ野が狭くなるという時代に入るわけですから、その中でいかにピークを上に上げるかということになると、上向きの志向の方には、どんどん上を向いて動いてもらうという社会を作っていかないといけません。みんな横並びの世界だと、すそ野が狭まれば、山の頂は下がる一方になってしまいます。いかにトップリーダーに、先頭を上げてもらえるかが大切です。そこからもう一度フィードバックして、地域全体の調整を図りながら、活力をどう戻していくのか、そこに行政の力があるわけです。
 そういう意味では、これからが本当に、官民一体となって、地域づくり、社会づくりをやる時代になっています。そして今回の復興は、そういう構えがなければ、なかなか難しいと思います。

山﨑 大西さんは、元に戻すのではないまちづくりということをおっしゃっていました。それはそういう観点からですか。

大西 少し複雑なポイントがあると思います。私はこの課題という議論で、一番大きい課題は、産業、雇用機会であると思っています。やはり、働く場がなければ人は暮らせません。
 例えば、ある記録によると、明治の津波の際、宮古市の田老には2,000人いたところ、海や町外に出た36人を除いて、すべて流されてしまったということです。そこまでではないにしろ、それでも8割ぐらいの方が亡くなりました。それから30数年がたち、昭和の津波が来た時は、前より多い人口で、そのうちの4割ぐらいが被災しました。ですから、明治の津波から30年の間に、より多くの人が宮古市田老に戻っていたということになります。それは宮古市田老に漁業があったため、その漁業をするために周りから人が集まったということです。そのころ、漁業は右肩上がりの時代でしたので、そうして人が集まりましたが、今は右肩下がりの時代です。ですから、産業の復興が大事であるということは、そのとおりで、仮設住宅から通うことになっても、まず、職場、産業の雇用機会を作るべきだと、私は主張しています。
 ただ、それがうまくいったとして、出来上がる地域像は、従来の7割から8割、あるいは6割になってしまうということを覚悟しながら、将来像を決めるということも必要であろうと思います。今のところ、浜ごとに復興計画があって、50軒あった集落は50軒に戻ると考えられていますが、実際は30軒になるかもしれません。30軒だったところは、もっと減ることになるかもしれません。
 そうすると、従来のようなかたちでコミュニティーを維持することができなくなります。したがって、2つのコミュニティー、3つのコミュニティーが共同で新しいコミュニティーを作るなどして、規模を大きくすることで社会生活を維持するという工夫が必要です。
 しかし、なかなかそこまで議論が進まないのが現状です。将来的には日本全体の人口が減るわけで、まして被災地でいろいろなハンディがあれば、ある程度コミュニティーが減少していくことは、やむを得ないと考えています。次の、かなり先の時代が来ないと、回復はしないと思います。しかし、それには4、50年はかかるわけですから、その過程における、それぞれの地域でのあり方というのを、冷静に見るということも、復興の一方では必要なことであると思います。

山﨑 皆さんのご発言を、現場の行政の責任者として、野田さんはどのようにお聞きになりましたか。

野田 全くそのとおりだと思います。釜石市のみならず、被災した三陸沿岸の12の市町村ほとんどが、震災前から人口減少、少子化、高齢化が進んでいる町でした。今回これが、被災で大きなダメージを受けたわけですから、当然、持続可能な地域として、これから発展していけるかどうかというのが、最大のテーマです。ですから、そこに雇用の場をきちんと作り、産業がきちんと立ち上がって、そして若い世代がそこで働いて、次の世代につなげていくという流れができてこないと、本当の意味での復興にはなりえないと思っています。
 これは当然、みんながそう思っているわけですが、実際は、今そういう企業が来てくれるかとか、被災した企業がやっと立ち上がれるか立ち上がれないかという状況の中で、ずっと先のことまで一緒に考えるというのは、なかなかわれわれの立場からすると、非常に難しいです。だからこそ、専門家の先生方やURさんに、いろいろと側面から、あるいはリーダー的な役割もお願いしながら、指導していただければありがたいと思っております。
 今われわれがやろうとしているのは、まずは、インフラ整備です。先ほど湾口防波堤や防潮堤の話をしましたし、おかげさまで道路整備もやっていただけることになりました。そういう意味で、最初の壁はクリアしたと思っています。
 次はやはり、被災地ということで、企業誘致がままならない状況です。なんとかほかの地域と比較しても、少しでも優位性のある地域として、企業の皆さんに発信していかなくてはなりません。だからこそ、スマートコミュニティーや、電力の地産地消など、地域で持っている良さを、どう発揮していくかということに、それぞれの地域の皆さんが知恵を絞っていかなくてはならないと思います。ほかと同じレベルでは、また津波が来るかもしれない場所に、企業が来るという確証は何もありません。ですから、できれば国が、大局的な視点から、この三陸沿岸に企業誘致をしてくれるとか、新たな産業を展開するとか、そういった政治的な判断をしてくれるなら、また話は別です。今の段階では、復旧、復興は市町村でやりなさいということで、それぞれの市町村の力にかかっているということです。
釜石市はなんとか、スマートコミュニティーやラグビーなどで、少しでも明るい希望を作っていこうということで努力をしています。しかし、陸前高田市や大槌町など、ほぼ中心街が壊滅した地域の、これからの復興というのは、正直大変難しいのではないかと、私は思っております。ですから、いろいろな知恵と力をいただきながら、三陸沿岸全体が、ぜひ持続可能な地域として発展していけるように、お願いをしたいと思っています。

テーマ3:復興を進めるにあたっての視点、被災地以外のまちづくりへの展開

山﨑 ありかとうございました。大変難しい課題がたくさんあるということが、よく分かってきました。それを乗り越えて、これから復興を進めるにあたって、こんな視点が大事はないか、こんな提言があるというお話、あるいは今回のまちづくりの経験を、これからの災害多発時代、地震活動が活発な時代と言われている中で、西日本や首都圏のまちづくりに、どう取り入れていったらいいのかということをお伺いしたいと思います。福屋さん、いかがでしょうか。福屋さんがやっていらっしゃることは、地域の力と地域以外の人たちの力を、うまく組み合わせようという取り組みのように思われるのですが、そのあたりはどのようにお感じになっておられますか。

福屋 私たちもチームとして訪問させていただいて、やはり、地域から学ぶことがあまりに多いので、それで多分みんなは、1年くらい続けているのだと思います。地域の方々の中でも、70歳くらいの、引退して年金をもらいながら漁師を続けていらっしゃる方もいるのですが、そういった方は、非常にお元気で、背筋も伸びていらっしゃいます。それを見ていると、引退漁師さんというのは、もしかしたら1つの健康法なのではないかと思うほどです。そして、都会人が学ぶべきところも、たくさんあるので、そういった浜の暮らしから私たちが学びながら、それをどうやって支え、支援を遠方から結びつけることができるか、これからやっていけたらと思っています。
 あとは、1つの方法として、インターシップ制度を作って、全国から大学生が短期的に調査に来ていましたが、半年ぐらい一緒に地域の中で活動して、また帰っていくという、復興まちづくりを体験して、また次の災害に生かすというような、そういう人材育成というものもやっていこうかと考えています。

山﨑 中井さんはいかがですか。

中井 先ほどの、人口減少の先進地域ということは、全くそのとおりです。ただ、先進地域であっただけに、既にいろいろな、萌芽的な取り組みやアイデアなどは、実は被災前からやられていたということはあります。
 例えば陸前高田というのは、とても良い松原の景勝地があったので、三陸の湘南などと言われていた場所で、リタイアされた方がそこに来て住むというイメージを持たれていた場所でもありました。ですから、いわゆるウェルネス産業などを、これから地域で育てていこうという話が出ており、ちょうどそのような時期に、災害に遭ってしまいました。それからもちろん、地場産業は第一次産業ですが、それを食品やお酒などに加工する、若者の起業を育てていこうとしています。それから農業や水産業のような、地域がもともと持っている自力の産業を、より育てていく。そういうものが復興の中で、かなり尖ったかたちで出てきているように思います。ですから、復興の中でそういう先取りした部分を、より進めていくことで、多分、人口減少時代の1つ先に進んだモデルのようなものを、ほかの地域に対して見せられるのではないかと考えています。
 もう一つは、ほかの地域への展開ということで言えば、やはり災害について勉強するということが非常に大事だと思います。今、被災地の方、特に陸前高田の方などは、復興ツーリズムなどにも力を入れております。被災地の方は、被災した事実が忘れ去られ、風化してしまうことを心配しています。私も語り部の1人として、被災地の状況を、いろいろな場所で発信しようと努めております。
 ですから、災害の際にどういうことが起きるか、どういうことが大事かということを、いろいろな方がそこを訪れて勉強することもあるでしょうし、こういった機会を通じて、いろいろ情報を知るということもあると思います。ぜひ、そういうことから災害対策を始められるといいと考えています。

山﨑 ありがとうございました。中林さんはいかがですか。

中林 私は、内と外と2つあると思っています。外側のほうでは、やはり内だけ見ていると、シュリンクするものを広げるというのは、極めて難しい。その時にどういうふうに元気を取り戻すかといった場合、外に向かって発信をする、外の友達といかに遊べるかということだと思います。そういう意味で、地域間の連携というものを、いろいろな観点で図っていくことが大切です。  今回、自治体ベースで言いますと、広域災害であったということもあり、各自治体とも、応援協定は訳が分からないほど、複雑に結び合っているのが現状です。災害時の応援協定と同時に、いかに平時の市民交流というものを、起こしていくネットワークにできるかが課題です。
 南三陸町は震災を受ける前、商店街をベースにした、全国の地方都市の商店街のネットワークを作っていました。それは防災朝市といって、神戸発で始まった、防災を絡めたネットワークでしたが、それが今回、震災のあと、さまざまな物資の救援というかたちで機能しました。直近の提携都市は、山形県の酒田市でした。港町酒田が、全国からの物資を引き受けて、そこから南三陸へ入れるというルートができました。
 それはその後、まちづくり復興市ということで、オープンマーケットを月に1回、土日に開催してきました。それも地元の商店が、物のない中、とにかくテントでお店を開き、まだ商売をやる気があるのだということを見せると同時に、全国からの商店街が出店して復興市を行いました。実はその流れの中で、一般社団法人の復興まちづくり機構というのを立ち上げました。
 われわれが標榜しているのは、これからの産業復興で町の活気を取り戻すために、内外を結ぶ、災害復興のボランティアセンターであるということです。外部からいろいろなかたちで、南三陸の産業や商いに目を向けてくれるような人を、極力結びつけると同時に、ボランティアというかたちで南三陸に入ってくれた、たくさんの方々に、復興の姿を見続けてもらうために、定期的に町に来てもらうことも試みています。
 そういうほかの地域との交流を通して、町に元気を取り戻していくことが、結果的に新しい人をこの町に呼び、場合によっては結婚して永住するということになるかもしれません。実際にボランティアで入った方が、結婚して住みついているケースもあります。そういうようなことが、どんどん増えていくということが、町に活気を取り戻し、高齢化は進んでいるものの、孤立化ではないのだという外部環境を作り出すことが、非常に大事な、地域づくりにつながっていくのではないでしょうか。それが、大東北作りにもなるでしょうし、新しい日本の地域ネットワークづくりということにつながるのではないかと思います。
 それからもう一つ、内部の問題として私が危惧しているのは、南三陸だけではなく、多くの漁村集落で、壊滅には至らないまでも、漁村の7割が被害を受け、3割は高台で被災していないという場所があります。ところが、防災集団移転は被災した方のみが対象となりますので、漁港はどう整備するか、高台に残された方はどうなるのかということが問題となってきます。残された場所には祠があったり、お宮があったりしますが、3分の2は高台に移転することになっています。それ以外の人は、取り残されることになります。これを元のコミュニティーとしては、一体的に高台移転と、残る市街地、産業基盤である漁村を整備していくような取り組みを考えています。
 ですから、もう少し、被災されなかった方たちにも目を向けて、町として、コミュニティーとして、どういう将来を目指すのかという議論をしていくことが大事であると思います。1年目はどうしても被災者の方に目が向いてしまったのかもしれませんが、被災しなかった方と被災した方が、いかかに連携して集落を取り戻していくかということも、重要な課題になっていると感じています。

山﨑 ありがとうございました。大西さんはいかがですか。

大西 今までに、いろいろ被災地の復興については議論が出ていると思いますので、それは一つ一つ大事だと思うのですが、一方でなかなか難しいという現実もあります。3.11以降、明るい材料として挙げられるのは何かと考えると、私も実は、4月1日に釜石に行ったのが、三陸を訪れた最初になります。それから何十回か行っておりますが、3.11を機会にずいぶん三陸に通ったという人は、ほかにもたくさんいて、被災地の方々と親しくなったという方もかなり多いようです。ですから、交流というのはこれからも、いろいろなかたちで続いていくと思います。被災地そのものにどのくらい人口が増えるかということについては、明るい展望ばかりは語れませんが、そうとう分厚い交流の輪ができたというのは事実であると思います。

パネルディスカッションの様子7

 それは被災地の側と、それ以外の人が双方でやるべきことでしょうが、いろいろな仕組みなり、組織なり、イベントを企画して、当面は復興が絡んできますか、観光だけではなく、ラグビーなどいろいろなことで輪を広げていくということが大事で、そのきっかけは十分にできたと思います。それをきちんと評価して、うまく生かしていくことが大事ではないでしょうか。
 もう一つは、今回の被災の教訓というのを、これから災害が起こると予想されるところに生かさなければなりません。2005年であったと思いますが、確か野田市長さんもお入りになって、津波対策を国がまとめました。それは三陸も対象ですが、尾鷲の市長さんも入っておられて、西日本の津波災害も対象になっておりました。実際に東北が被災し、西日本の危険度もますます高まっている状況です。ですから、ここで同じ轍を踏まない対策が必要になります。
 そのために、先ほど3つ、防災施設とちづくりと避難と言いましたが、一番即効性のあるのは避難ですから、まず避難訓練と、避難路、避難地の確保で、人命をできるだけ救う対策をしなくてはいけません。同時に、中期、長期的な対策として、町の改造もやっていく必要があります。被災地でも、小学校や中学校が海に近い場所にありました。確か全体で64、5校が、大なり小なり被災していたはずで、もともと危険な場所に建てられていた学校もあります。ただ、歴史的な経験から、学校はすべて丘の上に建てているという場所もありました。
 ですから、そうやって学校や病院、高齢者施設を安全な場所に移して、地域の人たちがつながりを持っている施設を移すことで、住宅もその周りに形成されていきます。少し回り道になりますが、そういう施設の建て替え期に合わせて、安全な場所に施設を移し、将来ビジョンとしてその周りに新しい社会を作っていくような、中、長期的な展望と、即効性のある避難を組み合わせて、建物の被害は仕方がないとしても、どうやったら津波犠牲者をゼロにできのかを、日本全体で真剣に考えるべきであると思います。そのために、被災地の方々は大変ですが、いろいろな教訓を伝えていってほしいと思います。

山﨑 ありがとうございました。時間もずいぶん過ぎてまいりましたが、会場の皆さんからご意見やご質問がございましたら、ここで時間を取りたいと思います。ご発言のある方は手を挙げてください。私が指名をさせていただきますので、お名前と、ご自身のお立場を添えていただいて、最初に意見なのか質問なのか、質問であればどなたへの質問なのかをおっしゃってから、簡潔に発言をお願いいたします。どなたかいかがでしょうか。
 挙手がないようですので、進めさせていただきます。では、最後のまとめを伺う前に、野田市長に、今までの皆さんのご発言を受けて、これからの釜石のまちづくりについてのお考え、それから、釜石の教訓を、どうやって全国に発信していこうと考えておられるか、教えていただけますでしょうか。

パネルディスカッションの様子8

野田 大西先生がおっしゃっていたとおりだと思いますが、私は、つい最近まで静岡県、岐阜県など他県の皆さまからもご支援を頂いておりました。当然そういった場所にも、海沿いであれば防波堤や防潮堤があるものだと思っていましたが、聞くところによると、全然ないそうです。実はチリ地震のあと、三陸に初めて防波堤や防潮堤が建設されました。ですからわれわれは、海には当然そういうものがあるという世界で生活してきました。
 しかし、日本全国には、ないところのほうが多いのだということを、今回の津波で初めて知り、これから想定される東海、東南海、南海の三連動の津波というのは、非常に大きな課題を抱えていると認識いたしました。ですから、われわれの教訓を、ぜひ生かしてほしいと願います。
 防波堤や防潮堤が、必ずしも必要だということではないと思います。なければないなりのまちづくりについては、その可能性も否定できません。ただ、そういうものがあるという前提の中で生活をしてきたというのが、われわれの大きな特徴であると思います。このことは大いに参考になると思います。ですから、ぜひこれからも、いろいろな場面で、われわれの体験を発信していきたいと思っています。
 この間釜石の町を歩いていましたら、商店街のたくさん並ぶ看板の中に、教訓を書いた看板がありました。「歴史という過去は囈語(げいご)に非ず。現代の警策(きょうさく)にして、未来の指針なり」と、大きな字で書いてありました。どなたの言葉かは分かりませんが、大変いい言葉です。囈語に非ずというのは、たわごとではないということです。警策というのは、禅のお坊さんが、座禅を組んでいる時に、後ろで迷いのある方にビシッと打ち鳴らす、棒のことです。
 まさにわれわれは、太平の眠りを貪っていたのかもしれません。明治29年、昭和8年の大災害を経験しながら、それを生かすことができませんでした。毎年防災訓練をしてきましたが、形骸化して、魂の入っていない訓練をしてきたのかもしれません。防波堤が高くなればなるだけ、住民の危機意識は低くなるという言葉がありますが、まさにそのとおりです。ですから、現代の警策なのです。頭をたたかれたような思いがございます。これは多分、被災したところが、一番感じているかと思いますが、日本全国民が、それを肝に銘じるチャンスだと思います。
 われわれの被害は津波でしたが、福島は原発の被害という、考えられないような事態が起こっています。みんな避難し、町には誰も住んでいません。このような信じられないような状況が、目の前にあります。しかし、どうでしょう。それにきちんと立ち向かうことができているのでしょうか。まだまだ不透明で混迷し、その対応策がはっきりしません。やはり頭を打ち鳴らさないと、日本人の意識というのは、変わらないのではないかと思います。
 ですから、今回の教訓というのは、人間の意識の変革です。ほかに依存しないといいますか、防波堤に依存するとか、気象庁の情報に依存するとか、あるいは誰か偉い人の言葉に依存するというのは、それはそれで受け止めながら、やはり自分の足、自分の目で確かめて、何が正しいのか、どうしたらいいのかということを考えて、人間として自立していくべきであると思います。そのことを、ぜひ皆さんに伝えたいと思います。

まとめ

山﨑 ありがとうございました。それでは最後に、パネリストの皆さんに一言ずつ、言い残したことや今日のシンポジウムの感想、あるいは今後の提言をお伺いして終わりにしたいと思います。順番に行きましょう。福屋さんからお願いします。

福屋 今日は皆さんのお話を伺いまして、防災まちづくりというのを、あらためて本当に難しい課題であると実感しました。その一方、3.11を契機として、私もそうなのですが、それまでは町について語るということが、自分にとって遠いというか、おこがましいという気持ちがありました。しかし、地震後、町についてみんなで語ることが、いろいろな方たちと共有できるようになり、それは非常に、これからのまちづくりにとって重要なのではないかと思っています。大変難しいことですので、都市計画の専門家にもご意見を伺ったり、URさんが今までに蓄積したノウハウをいただいたりしながら、分野横断的に行っていくこと、それから抽象論ではなく。地域で起きている具体的な問題の中から、新しい知恵をどんどん結集していく町づくりを、今後もやっていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

山﨑 ありがとうございました。では、中井さん。

中井 1つは、復興計画の議論をしている時に、陸前高田の市長とお話をしました。今回の震災は、世界中から注目をされています。特に、福島、それから津波の被災地です。そこをどうやって復興していくかは、やはり日本の力を見せるべき場面でもあると、非常に力強い発言をされていたのが印象に残っています。その意味で、私は、やはり世界に誇れるようなこと、あるいはそのお手伝いをやらなくてはいけないと思います。
 それから、現地の方は、実際に来てもらいたいという思いがかなり強いので、ぜひ皆さんに、現地に行っていただきたいということを、最後にお伝えします。8月7日には、七夕祭りも開催されますので、ぜひ足を運んでいただければと思います。

パネルディスカッションの様子9

山﨑 ありがとうございました。中林さん、お願いします。

中林 東日本の復興は、全国からの支援があって、やっとアクセルが踏める状況です。今役場の方たちは、本当に忙しく、余裕がありません。ですから、あまり先のことや不透明なことをゆっくり考えて、新しい企画を考えるという余裕があまりない状態です。そういう中で、なんとか頑張ってもらうためには、外部からの応援、民間の応援もありますし、行政もいろいろなかたちで、今後長い応援があるかと思います。それぞれできるところで、息の長い応援というのが大事であると思います。ですから、中井先生と同じように、今一度被災地に行ってみるというのが、最大の応援であると考えます。
 それからもう一つ、東日本の経験を次に生かしていくためには、減災の取り組みが大事であるということですが、具体的にどうしたらいいのでしょうか。私はもう少し事業が進んで、南三陸の皆さんに余裕ができたら、こんなことをやってみたいということが1つあります。野田市長の釜石でも、余裕が出たらやっていただきたいです。
 つまり、2011年3月11日の10年前、2001年3月11日に立った時に何をやっていたら、2011年の3月11日が、どう変わったのだろうかということを考えていくということが、大事なのではないかと思っています。町づくりですから、10年ぐらいのスタンスで、どういうまちづくりをしていれば、2011年3月11日の状況が、どういうふうに変わっていたかもしれないということを、ぜひまとめて発信していただくことが、より具体的に、どういう備えをすることで、本当に意味のある減災ができるのかどうかということを、実体験を伴って伝えていけるのではないかと感じています。そういう経験のとらえ方をしていくことが、教訓を生かすために、非常に大事なのではないかと思っています。
 そんなことを、被災自治体全体で連携してやっていただいて、それが被災地全体から日本に、あるいは翻訳して海外に発信していく、10年前プロジェクトのようなものが、被災地の皆さんのすべての体験を踏まえて発信できることが、非常に力強い地域づくり、国づくりへの力になっていくのではないでしょうか。

山﨑 ありがとうございました。大西さんには最後にお伺います。野田さん、お願いします。

野田 本当に今回の震災で、全国の皆さんからご支援をいただき、また、URさんをはじめ、諸先生方にもご支援とご協力をいただきました。日本というのは、いろいろな意味で批判されることも多いのですか、ある意味で、またすごい国だとも思います。これだけ多くの方々の協力があって、一歩でも二歩でも前に進めるということで、まだまだ日本は大丈夫だという思いもしております。
 その一方で、やはり時間の経過とともに、記憶が失われてしまうことも懸念されます。ですから、この危機意識を持続させるにはどうしたらいいかということを、ぜひ考えていただきたいと思います。町づくりと建物と、そしてそこに住む人の意識というものがバラバラでは、やはり駄目なのだろうと思います。ですから、その3つについて、常に接点を見いだしながら、それを継続していくまちづくりをしていきたいと考えております。
 復興の兆しが見えるという話がありました。確かにいろいろな方が来ていろいろなイベントを開催してくださることは、地域の皆さんにとっても非常に力強いですし、意欲や生きがいをもたらしてくれます。ただ、これは一時的なもので、当然過ぎ去ってしまうものであるということは、住民の皆さんも分かっております。本来は、自分の住まい、自分のすみかが明確に決まることで初めて、にぎわいの喜びも感じられるわけでございます。ですからやはり、土地の利用、区画整理事業を、早く進めたいと思っておりまして、引き続き関係者の皆さんのご支援をお願い申し上げます。

山﨑 最後に大西さん、お願いします。

大西 今、被災地では、がれきがきれいに取り除かれていますが、まだ何も新しいものはできていません。ですから、何ができるかについては、まさに今岐路に立っていて、安全な町ができるのか、歴史が語るように、もう一度同じ被害を繰り返すことになるのか、非常に重要な時期にありますので、この1、2年が、とても大事であると思います。被災者の方は、どうやって町を再建するのか不安になっておられるので、その気持ちに寄り添いながら、しかも安全な町を作らないと、禍根を残すことになります。そういう意味で、非常に大事な時期ですので、これまでの1年以上に、支援が必要であると考えております。

山﨑 ありがとうございました。コーディネーターを務めさせていただき、皆さんのお話を伺って、今日は大変勉強をさせていただきました。ありがとうございました。私は初任地が岩手県の盛岡でして、盛岡に4年勤務しておりましたが、その時に沿岸の産業や芸能など、いろいろ取材をして、今でも印象に残っているのは、小さな漁村とはいいますが、それぞれの集落が、海とのかかわり、それから文化、風土と、実に多様であったということです。その広い範囲が、壊滅的な被害を受けましたが、私は取材者の立場から、その多様な地域が、多様なかたちで復興していく姿を、みていきたいと思っております。そして、今回の震災で、私が取材させていただいた皆さんが、全国に伝えたいと思っておられる教訓を、全国に生かしていけるようなかたちで、私もかかわっていくことができたら、大変ありがたいと思っております。今日は長時間にわたってお付き合いをいただきまして、パネリストの皆さん、会場の皆さん、ありがとうございました。これでシンポジウムを終わります。どうもありがとうございました。

(了)

UR都市機構の都市再生事例

UR都市機構が取り組む都市再生事例をご紹介します。

プロジェクトインタビュー

UR都市機構は地方公共団体や民間事業者と協力してまちづくりを進めています。事業に携わっている皆さんにお話を伺いました。

地方公共団体の皆様へ

UR都市機構は地方公共団体のまちづくりを支援しております。

民間事業者の皆様へ

UR都市機構は民間事業者の都市再生事業を支援しております。

関連ページ

メニューを閉じる

メニューを閉じる

ページの先頭へ