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角田光代さんエッセイ 暮らしのカケラ(21) 「そこにいるはず」

URPRESS 2022 vol.70 UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]


イメージ写真photo・T.Tetsuya

二年以上にわたるパンデミック下で、多くのことが変わったし、今もきっと変わりつつある。

わが家の猫は、家に私と夫がいることに慣れてしまって、少しでも私たちの帰りが遅くなると「いったい何が起きたわけ?」とでも言うように、走って迎えにきて、わーわー騒ぐようになった。以前だったらこの猫は、帰りを待ちわびていたと思われたくなくて、わざと知らんふりしていた。今ではそんな「ふり」をする余裕もないくらい、私たちの不在が非日常になってしまったようだ。

人間界で、少し前から感じるようになった変化は、メールの返信速度である。私のメールは九割五分がた、仕事相手とのやりとりで、私自身は以前から返信が速かった。というのも、少し間を置くとメールをもらったことを忘れてしまうから、できるだけ早めに返信するようにしていたのだ。しかしパンデミックが起きてからは、その私がびっくりするくらい、みんな返信が速くなった。メールを送ると、五分以内に返信がきたりする。もっと速いこともある。

みなさん会社にいるんだなあとしみじみ思う。以前だったら打ち合わせなどで社内にいないことが多かった人たちも、今はじっとデスクで仕事をしているようだと、ある親しみを持って思う。

二〇二二年の三月末にまん延防止等重点措置が終了し、じょじょにだが、以前の日常が戻りつつある。私自身も、緊急事態宣言中に延期となったイベントなどが再開され、五月以降、少しずつ出張が増えはじめている。飛行機にも久しぶりに乗るようになった。

出張先でも、スマートフォンでメールの送受信ができる。けれども私は出張先ではチェックだけして、よほど急ぎの用件でないかぎり、帰ってから落ち着いてパソコン経由で返信している。これは以前からずっとそうだ。

ところが昨今、メールを受け取ってからたった一日返信しないだけで、「メールはぶじに届いているか」「返事はいつまでにもらえるか」と、切羽詰まった確認メールがくるようになった。パンデミック前は、LINEやショートメールではないパソコンアドレス宛のメールならば、二、三日のちに返信してもこんなにも返信をせかされなかったと記憶している。これはたぶん、この二年間で「どこかにいっていて、不在」という想像のオプションがなくなったからではないだろうか。

考えてみれば、この「その人はそこにいるはず」という無意識は、猫にも人にも同様に刷りこまれたらしい。もっとずっとあとになって、このパンデミックを振り返るとき、「その人はぜったいにそこにいる」というこの感覚を、もしかしたらとてもなつかしく思い出すのではないかと、ちょっと思ったりする。

プロフィール

かくた・みつよ

作家。1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』(文藝春秋)での直木賞をはじめ著書・受賞多数。最新刊は『タラント』(中央公論新社)。

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