南三陸町震災復興計画を2011年12月に策定。住宅や公共施設は、最大クラスの津波が来ても安全な高台に整備し、それまでの市街地だった低地部は、生業の再生の場として整備するという大胆な 例えば南三陸町では、公共下水道をやめました。このまま続けていっても赤字となり、維持管理が難しいと判断したからです。震災後は合併浄化槽に変え、残った処理センターはバイオマス産業都市構想の施設に転換しています。 持続可能なインフラ整備は行政の仕事ですが、産業は民間の手で工夫しています。例えば牡蠣の養殖施設は、震災ですべて流されました。再出発する際、これまでの密植状態から牡蠣棚を1/3に減らす新たな手法を取り入れ、ASC認証を日本で初めて取得。その結果、生産量は震災前の2・4倍に増え、今では“1/3の奇跡”と呼ばれています。 いま南三陸町はハード面の復興事業がすべて完了し、新しいまちが動き出しています。URさんの力がなければ、ここまでの復興はなしえなかった。感謝しかありません。 同時にURさんには、この経験で得た知見とノウハウを次の世代に伝えていってもらいたい。そして各家庭には、災害を自分ごととしてとらえ、事前の準備をすることをお願いしたいです。・安心して暮らし続けられるコンパクトなまちづくり・自然と共生するまちづくり・生業とにぎわいのまちづくり この3つです。 しかし従来の国の制度が復興の現場に合致しないことが多く、折り合いをつけるのに苦労しました。こうした国や県との調整、工事の手順調整など、復興の現場でURさんの知恵とマンパワーを存分にお借りしました。 私は原形復旧ほど無駄な復興はない、と思っています。復興の過程で、やめるものや縮小するものがあっていい。目指したのは「創造的復興」です。計画を推進していくことになった。URは12年3月に復興まちづくりの推進に向けた覚書を締結。本格的な復興事業をともに推進していった。 二度と津波で一人の命も奪われないまちをつくる。これが南三陸町の復興の“一丁目一番地”です。それには津波の来ない所、高台に住むしかありません。 具体的に目指したのは、志津川地区の高台に住宅や病院、町役場などが整備され、普段の暮らしが戻ってきた。住宅と生業の場を分け新しいまちをつくる川の左手が南三陸さんさん商店街と、南三陸311メモリアル。右手に広がるのが南三陸町震災復興祈念公園。18UR PRESS vol.85
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