「絶望」からの創造的復興、15年の軌跡火でかろうじて暖をとって生き延びたのです。 夜が明けて、町の惨状が見えてくるのが怖かった。目の前にあるはずの町の景色が、いっさいなくなっていました。それを見たときの気持ちは「絶望」の一言。口には出しませんが、本当に再建できるのだろうかと、打ちひしがれる思いしかありませんでした。 じつはそのとき私は津波に打たれ、肋骨を骨折していました。手からも数カ所出血がありましたが、そんな痛みはなに一つ感じません。被災後1週間は無我夢中というか、とにかく目の前に出しゅっ来たいする問題に対処することに追われ、痛みを感 南三陸町に押し寄せた津波は、最大浸水深20メートルを超えた。過去に幾度も津波被害を受けている同町だが、想定をはるかに超える津波が押し寄せ、町は一瞬のうちに壊滅した。 震災当日、私は町の防災庁舎におり、そこでずぶ濡れのまま一夜を明かしました。職員の中にライターを持っている者がいて、そのじる暇もありませんでした。 町の体育館を災害対策本部に定め、あらゆることに対処していきます。床に雑魚寝でしたが、毎日疲れ切って、横になると3秒で眠りに落ちました。ストレスとプレッシャーで食欲はなく、支給されたおにぎりを丼に入れ、水をかけてかろうじて胃に流し込む状態。1週間で7キロ体重が落ちました。 ようやく少しほっとしたのは、8月のお盆の前に応急仮設住宅が完成したときです。建設場所を決める際の合意形成など、職員は大変苦労しましたが、それまで避難所で生活していた方々が、畳の上で過ごせるようになったことは、大きかったですね。 生なり業わいの復興を目指し、仮設の「南三陸さんさん商店街」も翌年2月にオープン。まだ道路もできていない状態でしたが、とにかく一歩を踏み出しました。武田ちよこ=文、青木 登=撮影(人物)今年の2月13日、東京新宿で、宮城県南三陸町の前町長、佐藤 仁氏がUR職員を前に講演を行った。テーマは「東日本大震災からの復興」。そこでのお話と、翌日のインタビュー内容をまとめてお届けする。壊滅状態のまち。手前にJRの線路、中央奥に見えるのが防災庁舎、右奥に公立志津川病院の建物が見える。志津川市街地 2011年6月18日撮影。志津川市街地 2001年5月12日撮影。1951年宮城県志津川町(現・南三陸町)生まれ。92年に旧志津川町議会議員に当選し、2002年3月、旧志津川町長に就任。05年11月、南三陸町初代町長に就任し、町長を5期務めて25年11月に退任。その間、東日本大震災からの復興を中心となって牽引した。さとう・じん佐藤 仁想定外の津波に襲われ町は壊滅した南三陸町前町長 佐藤 仁氏インタビュー17UR PRESS vol.85
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