6UR PRESS vol.80震災で甚大な被害を受け、区画整理された阪急西宮北口駅北東エリア。複合商業施設ACTA西宮や防災公園が整備されている。左から、URの宮内、新谷、片岡。いずれも震災当時は若手で、「先輩たちの当時の仕事の仕方や苦労話をもっと聞いておけばよかった」と話す。HAT神戸・脇の浜で。西日本支社 兵庫エリア経営部長神戸市の東部新都心として開発されたHAT神戸エリア。住宅、美術館、ショップ、病院、公園などが集まる。中央に並ぶのはHAT神戸・脇の浜。県営、市営、URの住宅がゆるやかにつながって並ぶ。徒歩10分ほどの距離にHAT神戸・灘の浜がある。JR芦屋駅近く、震災で大きな被害を受け、区画整理されたエリアにある大桝公園。防災倉庫の設置など防災面も考慮されている。「住む人たちの豊かな暮らし」を必死に考えていた先輩たち西日本支社 戦略調整室情報活用戦略課長震災があった年の春に入社したので、何もわからない子どもがお父さんを見るような感じで、先輩たちについていくのに必死でした。公団としてもこれほど大きな復興事業に携わったことがないなか、同時に多数の復興住宅の建設を進めていかねばなるなど苦労されていました。私は、西宮市の復興住宅の設計・工事の発注などに携わりました。 時間がなく超多忙ななかでも、住む人たちがいかに豊かに暮見るたびに、公団で受け継がれてきたDNAを誇りに思います。 その一方で、私自身は日々の業務に追われ、入居される方を見ることなく仕事に関わっていて、被災している方の思いに寄り添えていたのか、という反省があります。地震が起きても倒壊しない住宅を建てたものの孤独死の問題も起きて。東北の仮設住宅の応援に行ったときにも、コミュニティー醸成の大切さ、安全に暮らせる部屋だけでなく、人が集まる場も必要なことを痛感しました。現在は、お住まいの方に、ずっとここで暮らしたいと思ってもらえるように、URが掲げる「ひとが輝く都市をめざして、美しく安全で快適なまちをプロデュースする」の実践に取り組んでいます。らず、当時はスマホもなく、先輩たちはファックスでやりとりすらせるかを必死に考えていた先輩たち。その足跡が残る団地を 神戸の大学に通っていたこともあり、復興に携わりたいと志願。入社4年目となる1995年4月に配属されたときは、机も椅子も何もない部屋の床に電話が置かれていて、課長が一人立っていたのを覚えています。何もないなか、とにかく建設に向けて動き始めるという時期で、どの打ち合わせもすごい熱量でした。担当した「HAT神戸・灘の浜」は、神戸市東部の新都心「HAT神戸」の一角にあり、工場があった敷地の土地区画整理事業を包括的に受託し、区画整理の開始から半年で住宅建設に着工するという稀有な取り組み。復興住宅の設計の際は、安全で安心して暮らせることに加え、つらい経験をした方のことを考えて明るい色みを意識しました。高齢の方にも使いやすいようにと復興住宅で標準仕様とした、上下のない鍵やバリアフリーのユニットバスなどは、その後スタンダードになりました。 URの建築基準は厳しいと言われますが、建物の倒壊で亡くなった方がいなかったのは、やってきたことが間違いでなかった証明であると思います。30年経ち、復興住宅であったことを知らない新たな住民も入居しています。「HAT神戸・脇の浜」で最近かまどベンチなどを追加しましたが、時代のニーズに合わせて必要なものを追加・変更できるのは、余白をもってつくられているURの団地ならではだと思います。自治体も設計者も工事業者もURも、みんなすごい熱量でした新谷依子片岡有吾
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