街に、ルネッサンス UR都市機構

団地に込められた設計者の想い

伊藤 功氏(千葉大学客員准教授/窓建コンサルタント)

第一部 日本住宅公団の団地設計計画

前半は、日本住宅公団の団地設計計画ですが、そもそも住宅公団は、昭和30年に戦後の住宅不足の下、設立され、公庫・公営と併せて住宅政策の三本柱と言われました。公団は、勤労者向けに耐火で広域かつ大規模な住宅・宅地の供給を行うことがミッションでした。一方、公団以前の公的住宅や団地ですが、みなさん「同潤会」という名前を聞いたことがあると思います。代官山や青山、原宿など、現在では都心の一等地となった場所に、かって鉄筋コンクリート造の集合住宅を先駆的に建設した組織です。現在では、建替が進み、近代的な建物に代わっておりますが、その発足は、大正13年に遡り、関東大震災の復興を目的に当時の義援金(寄付)で設立され、都市の不燃化に向けて欧米の最先端の集合住宅計画技術を導入しました。その後、戦時下に住宅営団に引き継がれ、戦後、営団の解散とともに、その技術の蓄積は公営住宅や公団住宅に引き継がれます。
さて公団は住宅の大量供給のため、団地建設にまい進することになります。当初800人弱の組織で発足したにも関わらず、初年度2万戸のノルマが与えられました。迅速に団地建設を進めるために、(1)標準設計、(2)部品の開発及び量産化、そして(3)配置手法の基準(団地設計要領)の3点を準備して臨みます。

(1)標準設計

標準設計ですが、2DKや3K、3DKの間取りタイプ別、また住棟タイプ別で構成され、組み合わせたものを図面化し活用しました。今回のテーマであるスターハウスもポイント型住棟の標準設計の一つでした。

標準設計の整備
(2)DKスタイル

DKスタイルに伴う部品の開発、量産化ですが、公団はDKに加え、当時の公営住宅ではなかった浴室も、予算上の面積の差(約一坪)を利用して設けるなど、最先端の暮らし方を提供しました。また部品の開発ですが、当時の日本では、RC造の集合住宅に関わるゼネコンやメーカーも多くは育ってなく、公団は可能な限り住宅部品や設備機器等の量産化を図ることで、施工の合理化や品質確保を図るとともに関係業界の育成も促しました。その中でも、公団の流し台は、ステンレス製で開発(以前は人研ぎ石)され、その苦労話は、一昔前のNHKの「プロジェクトX」にも取り上げられるほどでした。

(3)団地設計要領

配置の基準ですが、公団は、住宅営団や公営住宅の基準、海外の先進的技術等を取り入れ、団地設計要領として取りまとめます。それは、団地を単に住棟が並ぶだけの空間ではなく、コミュニティ形成や快適な居住空間の実現に取組む試みでした。

・ポイント1 住戸のまとまりの考え方

団地設計要領のポイントの一つは住戸のまとまりを考えることでした。まず「隣保区」と呼ばれる最小のまとまりとして100~150戸、中層住宅では4~5棟を1グループとし、中央に乳幼児の遊び場(プレイロット)を置いて、住棟で囲むことを考えました。子育て世帯が中心だった当時の居住者がプレイロットに集い、顔見知りになれる規模を最小単位と設定しました。次にその隣保区が4つ程度集まった「近隣分区」を設定し、その中心には集会所や保育園、店舗や学童などの児童公園を置くこととしました。そして、さらに近隣分区の4つの集まりを「近隣住区(2千~3千戸)」として、診療所や小学校、近隣公園などを配置する段階構成手法を基本としました。これは1923年アメリカのクレランス・A・ペリー「近隣住区論(小学校区を一つのまとまりと考える)」を基にした考え方と言われております。

・ポイント2 隣棟間隔、歩車分離、住棟回りの空間構成等に配慮

ポイントの二つ目は、住棟配置の原則として、冬至の4時間日照を各住戸に保証する距離(建物高さの1.8倍)を隣棟間隔として確保するというルールです。この距離があれば通風やプライバシーも十分確保できます。また、歩車分離は、先ほどの隣保区のまとまりの中で、中央に車の入らない歩行者路とPLを配置し、住棟前のサービス用の車動線は行止り(袋小路・クルドサック)とすることで通過動線を排除し、居住者の安全を確保しました。また、住棟廻りについても、豊かな隣棟間隔のスペースを活用して、植栽などによるマント空間等を設け、住戸のプライバシーを確保しつつ歩行者にとっても心地よい空間構成としました。

・ポイント3 初期の団地計画について

ポイントの三つ目は、初期の団地で説明します。金岡団地(大阪府堺市)は公団入居第一号で、団地中央にスターハウスを配置して、景観にアクセントをつけるとともに、NSペア(北入り・南入り)住棟を設けて入口を向かい合わせにすることで、より中央のプレイロットでの出会いを増やす計画です。また阿佐ヶ谷住宅(分譲)では、周辺の戸建に配慮して低層のテラスハウスを周囲に配置し、中央に広場(児童公園)を囲むように緩やかなカーブの道路沿いに中層階段室型を配置して豊かな景観を生み出しております。もちろん段階構成として、乳幼児の遊び場(プレイロット)は100戸程度のそれぞれのまとまりの中心に歩行者路に隣接して設けられており、これは津端修一氏の設計です。

・ポイント4 配置設計の多様化

団地の設計については、当時の公団の組織として、東京、関東、名古屋、大阪、福岡支所で、それぞれの土地柄や風土、団地毎の立地状況等に応じて、団地設計要領の基準等を守りながら、様々な住棟配置等が試みられました。それはまさに百花繚乱の様相を見せますが、昭和40年代に入って、当時の本社設計課長であった杉浦氏が流派として分類整理しました。それぞれ考え方やよりどころとしたテーマなどに即して、幾何学派や風土派、物理機能派、生活派、その混合であるいくつかの流派に分類されました。

風土派の代表は高根台(賃分4870戸・昭和36年)です。敷地の高低差に併せて、ゆるやかなカーブの道路に沿って中層住宅、谷筋に沿ってボックス住棟、尾根筋にテラスハウスを配置し、土地の起伏に応じた住棟配置を工夫しました。
幾何学派の代表は赤羽台ですが、これは後半で説明いたします。
生活派の代表は草加松原(5926戸・昭和37年)です。この団地は、起伏のない敷地において、利便施設を持つ2~3の近隣分区で構成された近隣住区を2つ(小学校区2つ)組み合わせて、生活圏を意識した配置といわれており、まさに絵にかいたような段階構成の配置となっております。
物理機能派は日照派とも呼ばれ、代表は上野台(2080戸・昭和35年)です。見てわかるように、敷地周囲の道路がほぼ45度にふれているにも拘わらず徹底的に南面平行配置にこだわります。先ほどの草加松原と上野台は当時関東支社(神奈川・埼玉)が設計を担当しましたが、高根台や赤羽台を担当した東京支社(東京・千葉)とは明らかに流派が異なる感がいたします。
以上、第一部をまとめますと、住宅不足解消のため、日本住宅公団は発足し、高度経済成長期の大都市圏の人口集中等に対応すべく、団地建設等を推進します。特に昭和40年代半ばには、日本の住宅着工戸数のピークにおいて、1年間で賃分併せて八万戸を建設するなど、一定の役割を果たします。しかし、その直後、昭和48年の第一次オイルショックや住宅不足の量的解消(48年住宅統計調査、すべての都道府県において住宅数が世帯数を上回る)により、「高・遠・狭」の批判のまととなった大量の空家を抱えることとなり、標準化・量産化による団地の大量供給はその役目を終えます。

第二部 赤羽台団地に込められた設計者の思い

(1)団地諸元・設計の特徴

後半は、赤羽台団地に込められた設計者の思いについて、説明します。団地諸元ですが、3,373戸の規模で、特徴としては23区内では初めての3,000戸超の大規模団地、都市型としての高密度(容積率71%)な計画、住棟配置も、敷地形状などから、直行・囲み配置や通り抜けピロティなどの多様、1K〜4DKの多様なラインナップとダイレクトアクセスや無電柱化など、現在でも十分通用する斬新な企画を満載しておりました。

(2)赤羽台周辺の歴史

赤羽台の土地利用について、過去から見てまいりますと、明治初期は荒川沿いの田園地帯でしたが、既に火薬庫が置かれております。明治16年には鉄道が開通し、赤羽駅周辺の市街地化がはじまりました。
また大正に入り、周辺の軍事施設が拡大されて、戦前、赤羽台の敷地は陸軍被服廠(軍服の工場)になっていました。
戦後、米軍に接収された後、昭和33年に返還後、国からの現物出資として公団が取得、団地の設計計画をスタートします。なお水色の都営の桐ケ丘は先行して昭和29年に建設が始まっております。

(3)赤羽台団地の設計条件

赤羽台の設計条件ですが、23区内初の大規模団地ということで、高密な計画、国や都からモデル性が求められ、敷地の状況は、駅と桐ケ丘団地の中間に位置し、また方位は45度ふれて直交配置に適していると考えられていました。
当時、公団で担当していた野々村氏と吉田氏の設計記録が配置案とともに、雑誌(国際建築 第29巻4号 1962年4月)に掲載されておりましたので、それらに沿って配置の考え方を見ていきます。

(4)赤羽台団地の設計検討

当初の配置案では、桐ケ丘団地と駅を最短ルートで結ぶ人の動線を考えて、その動線に沿って中央に店舗・集会所・公園等を配置、南斜面にはオープンスペースと一体となったハイポイント住棟(スターハウス)を計画、また住宅街区は、東西に配置、住棟長さを2種類(80~100m、30m)用意して、中央に広場を囲む計画を考えました。 
次の案では、桐ケ丘と駅を結ぶ動線を車動線に見直し、通過交通を排除すべく団地中央をオープンカット(掘割)で抜く案に変更、また住宅街区については、より中央の広場空間を広げるため、L字型住棟と通常の住棟2棟の囲み型に変更、団地縁辺部にポイントを配置する計画案となります。
その次の案では、学校や店舗の位置を見直し(南端や東端に配置)、住宅街区を一体化する案としましたが、その後、車動線は住宅街区一つ分、東側にずれて決定されるとともに、小学校は南と東の位置で固まります(道路や学校は都や国が決定)。実は、決定した道路位置は旧被服廠の既存道路に沿ったものであり、併せて他の既存道路インフラの再活用も求められ、概ね配置の骨格が決定、その後、野々村氏は体調を崩し、津端氏に交代したと記録に残されています。
引継いだ津端氏の配置スケッチ案が残っておりますが、道路及び学校等の位置は既定路線となっており、住宅街区の調整がなされました。

(5)赤羽台団地の設計検討-完成案

津端氏の最終案と実際の計画を見てまいりますと、北側の7階建の囲み配置として、1階には店舗や利便施設等を配置、ピロティも一部残し、将来の駅前市開発の仮設店舗利用も想定しました。これは当時都心で建設していた「下駄ばき住宅」と言われた住棟形式をスーパーブロックの囲み型で実現したものです。一般の住宅街区は、中央の南北及び東西の道路に沿って長大な7階住棟を配置し、景観上のアクセントとするとともに、直交配置と平行配置を基本としつつ、通り抜けピロティを多数設けました。また、南がけ地斜面には、スターハウスを複数配置、抜けの空間とし、駅からの景観等に配慮しております。配置以外には、標準設計の時代にも関らず、メゾネットやスキップフロア、ダイレクトアクセス、専用庭、将来の2戸1改造など多種多様な住戸設計となっており、その企画は現代でも十分通用するものでした。

また昭和50年代頃の赤羽のイメージとして、赤羽モンマルトルという本があります。これは戦前から池袋周辺に芸術家アトリエが多数あり池袋モンパルナスと呼ばれたことにちなんで、赤羽も画家などが集まったことから、赤羽モンマルトルと称したと言われております。赤羽の建替えに際して、赤羽のイメージの参考資料として、モンマルトルと赤羽を比較がなされ、都心の北はずれで川(セーヌ・荒川)があり、高台、文化人、タワー(サクレクール寺院・スターハウス)があるなど、類似点が整理されました。
さて時間が追っておりますので、簡単に、現代の赤羽台の建替えの状況を見てまいります。その特徴は、(1)次世代都市型モデルとすること(建設当時とテーマは同じ)、(2)団地骨格の継承(建設当時と同じ)(既存道路の利活用、結果110mの長さの囲み配置)、(3)沿道配置(建設当時の7階長大住棟)、(4)地域コミュニティ軸、(5)都市機能の向上、そして(6)スターハウスを中心とした南斜面街区の保存利活用となります。
最後に津端氏の最終案と建替後の配置を比べ得てみますと、この最終案は着工前だとすると昭和34年(私の生まれた年)60年を経て、建替えが進み、囲み配置と保存ブロックのハイポイント住棟を含めて、当時の目標像が、まさに津端氏のスケッチどおりに実現できているのではないかと思っております。皆様の感想はいかがでしょうか?

Q&A

Q:当時の団地設計者が今団地再生を手掛けたら、どのような手法をとると思われますか。

伊藤  設計コンサルタントという立場ですが、昔の思いをどのように盛り込んでいくかはUR現役の方々も悩みながら取り組んでいます。中でも、もともとの団地の配置が出来上がった経緯を伝える資料が少なく苦労しています。昔の伝統の継承をURの内外に伝え、当初の配置の考え方を踏まえたものにしていただくと、よりよいものになると思います。

大月  津端さんを赤羽台団地にお連れしたことがありますが、その当時津端さんが、赤羽台団地の改築案を雑誌で発表されていて、超高層の円筒が2本建っているアバンギャルドなものでした。当時の設計者は伊藤さんの話にもあるように上司や国と「喧嘩(喧々諤々の議論)」しながら仕事をしていました。URの皆さんもこのコンペに取り組む皆さんも「喧嘩」するぐらいの心構えが必要だと思います。昭和30年代の公団の設計者の魂は団地に溢れていると思います。団地間の遊具にこだわったり、1階のピロティの壁画にこだわったり、これらが長い年月を経てとても素敵な風景をつくっていてこれが魅力だと思います。
 さて、ここで伊藤さんに私から質問なんですが、赤羽台団地のスターハウスが建っているエリアは赤羽台団地にとってどんなエリアですか。

伊藤  赤羽モンマルトルの話しを先ほどしましたが、駅から見上げた位置にあるスターハウスは残すことになりました。これはとてもよいことだと思っており、形は残しながら今回のコンペでよいアイデアを出していただいて、それをぜひURで実現していただきたいと思っています。

大月  コンペは情報戦と言いましたが、赤羽の語源は関東ローム層の赤土から来ています。「はに」という言葉は「赤」という意味です。スターハウスの敷地の横は昔の隅田川が土地を削った結果急な河岸段丘になっていて、その部分から関東ローム層の赤土が出てくるので「あかはに」と呼ばれました。河岸段丘の出っ張った危うい大地だったからこそ大きいものを建てられず、点で支えるポイントタワーしか建たなかった背景があります。このように歴史地理学的な風景を崖の下から読み取るなんていうことにも、余力があればトライしていただきたいと思います。

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