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未来を照らす(15)タレント 関根勤さん

URPRESS 2018 vol.52 UR都市機構の情報誌 [ユーアールプレス]


未来を照らす 15 SpecialInterview Tsutomu Sekine 「子育てで大切なのは『笑い』と『共感』コミュニケーションの極意でもありますね」

芸能生活44年。お茶の間に明るい笑いをふりまき続けるタレントの関根 勤さん。
その元気の秘密はどこにあるのでしょうか?
子育ての極意から、「お笑い界」への思いまで、たっぷりと伺いました。

タレント 関根 勤さん

せきね・つとむ
1953(昭和28)年、東京都生まれ。
TBSテレビ「ぎんざNOW!」のしろうとコメディアン道場で初代チャンピオンになり、74年に芸能界入り。
デビュー当初の芸名は「ラビット関根」、82年より本名の「関根勤」で活動。バラエティ番組を中心に、テレビ、ラジオ、CM、舞台など幅広く活躍中。
2月3日(土)、4日(日)に「関根 勤×柳原可奈子トークライブ 酷白7」を日経ホール(東京都千代田区)で開催。

テレビ大好きっ子からお笑いの道に

子どもの頃に住んでいた東京の家の近くには団地があり、友達もいました。団地には広い公園があって、よく遊びに行きました。砂場でビー玉のコースを作って、ビー玉が途中の落とし穴に落ちたら取られちゃう遊びとか、メンコとか。

芸能界に入ってからも、仕事で団地に行きましたよ。夕食のメニューでビンゴを作って、「今晩のおかずはなんですか」と突撃訪問する番組をやったこともあります。そしたら団地のみなさん同士が仲良しで、けっこう集まって来られるんですよ。あれはうらやましかったなぁ。

団地の中は一般道路を通らなくていいから車の危険もないし、公園にはみんなの目があるし、安心して友達のところへ遊びに行けるでしょ。すごくいいなと思いましたね。

子どもの頃の僕は、とにかくテレビが大好きでした。ちょうど僕が生まれた昭和28年にNHKの放送が始まりまして、その頃はお金持ちしかテレビを買えないから、子どもは集まってテレビのあるお宅に見に行くんです。

まさに魔法の箱でしたね。ターザンとかマイティ・マウスとか、動く漫画にもう心を奪われちゃって。

いまの天皇陛下のご成婚のときに、親父が頑張って、うちにもテレビが来たんですよ。僕が6歳くらいのときかな。当時は貴重な高級電化製品ですから、見終わるとカーテンみたいな布のカバーをかぶせてね(笑)。僕は小学生のとき給食が食べられなくて、厳しい先生にいつも居残りさせられていたんですよ。そのつらさをチャラにするために、家では食い入るようにお笑い番組を見たんです。テレビが救ってくれたんですね。

いつしか自分も物まねをやるようになって、21歳のときに当時大人気だった『ぎんざNOW!』というバラエティ番組の「しろうとコメディアン道場」コーナーで5週勝ち抜き、チャンピオンになりました。そうしたら、大ファンのコント55号がいた浅井企画の社長から「芸能界でやってみないか。コント55号を育てた浅井が君の才能は保証する」って言われて舞い上がっちゃって。「じゃ、よろしくお願いします」と、あれは人生最大の調子こきでしたね(笑)。

子育ての極意は「笑わせること」

憧れていた芸能界に入ったものの、何の修業もなくポンと入っちゃったから、最初の10年は全然ウケなくて、仕事もあまりなかったんです。ちょうどその頃、娘の麻里(タレントの関根麻里さん)が生まれました。それで、「自分の得意分野は何かな? 娘を笑わすことだ!」と思ったんですね。自分の娘を笑わすことのできない芸人が、人さまを笑わせることができるのか、ってチャレンジですよね。

とにかく娘の喜ぶ顔が見たくて、ずっとふざけていました。例えばお風呂に入るときに裸になるでしょう。そうすると僕のお尻が娘の顔くらいの高さなんですよ。それでお尻をパーカッションにして娘に叩かせて、僕がお尻を振りながら「ケツケツケツケツ」と踊ったり歌ったり(笑)。麻里が笑ったことしか記憶がないくらい、常に笑わせていました。

子育てにも目標を持つといいと思うんです。人間って何か目標があれば頑張れますからね。僕は子育ての目標として、「明るい子にしたい。将来、人さまに迷惑をかけない子になってほしい。空気が読めるようになってほしい」と思ったんですね。

そのためには、とにかく笑わせるのが一番いいんです。笑うと心が開放されて、ストレスがなくなる。ストレスがない子は、明るいし、人をいじめません。

子どもが幸せになるために、親の自分に何ができるかを考えてみる。決して難しいことじゃないんです。例えば最近子どもが大笑いすると話題の『えがないえほん』を読むことから始めてみるのもいいのでは?

コミュニケーションには「共感」が鍵になる

一人娘の麻里さんを「笑わせる担当」だった、若き日の関根さん。

子育てに関しては、本もずいぶん読みました。そのなかで一番覚えているのは、「共感することが大切だ」ということです。それが役に立ったのは、麻里が小学校4年生のとき。「勉強がつまらない」と言い出したので、「あの本のノウハウを使うのはここだ!」と(笑)。

「そうだよな、本当につまんないよな。歴史なんか、なんで何千年も前のことを詳しく覚えなきゃいけないんだ。ピラミッドがありました、でいいじゃないか(笑)」と、まずは1回のみ込むわけです。すると、子どもは「父親はわかってくれた」と安心するんですよ。

そのうえで「でもね、お父さんはそうやって逃げてきたら、大人になって自分がやりたいことが見つかったときに大変だった。麻里が将来何かやりたいときには、いま鍛えた脳が支えてくれるんだよ。だからいま勉強することが大切なんだよ」と。それからは、あまり文句を言わなくなりました。

共感ということに関しては、子育てだけではなく、普段のコミュニケーションでもすごく大切だと思いますね。楽しい会話にするためには、まず相手が興味のないことをしゃべっちゃダメですよね。それと自慢話もいやですね。一番いいのはドジった話。

「ホテルのドアにカードキーを入れたのに、全然開かないから人を呼んだら、Suicaだったんだよね」(笑)。そうすると「私もあります!」って共感できるでしょう。それで会話が弾んで趣味が合ったら、どんどん話を深めていけばいいんです。

芸能界で影響を受けた欽ちゃんと小堺くん

芸能界に入って、今年で44年を迎えます。その間、いろんな方から影響を受けましたが、やっぱり欽ちゃん(萩本欽一さん)には本当にお世話になって、お笑いのノウハウを教えていただきました。

例えば舞台では、メインで演じている人にお客さんの目線が集中するように、自分の出番以外はスッと気配を消す。セリフは極力言わず、体で表現しろとか、間合いの取り方とかね。あとは、藤山寛美さんと三木のり平さんの舞台を見に行けと言われました。「寛美さんは間だけで笑わせる、のり平さんは会場の空気を笑わす最後の人だ」と教えてくれました。

小堺一機くんは『ぎんざNOW!』の2年後輩で、僕が27歳、小堺くんが25歳のときにコンビを組みました。彼は頭の回転が速くて、相当の切れ者。彼と出会えて本当によかった。一人じゃここまでこられなかったと思います。

35歳のときにカンコンキンシアターの座長になり、若手をプロデュースするようになってからは、全体が見えるようになりました。視聴者やディレクター、プロデューサーが何を求めているかを常に考えながらやっています。

僕はいまもテレビとお笑いが大好きな一視聴者でもあり、テレビをよく見ます。自分が出演しているときには、若い芸人さんに僕のパスをどんどん投げます。彼らがそれをキャッチして、うまくシュートして笑いがとれると、うれしくてたまらない。彼らをなるべく目立たせたいし、彼らにウケてほしいんです。だって、みんな「お笑い」の仲間だから。歌謡界や俳優界に負けないように、「お笑い界」も頑張っていこうという気持ちです。

朝ドラで、明るいお父さんを演じたい

孫が生まれてからは、もうかわいくてかわいくて、頭がおかしくなりそうです(笑)。麻里のときと同じで、僕の担当は笑わせる係。孫の人格の明るいところを担いたいと思って、いつもゲラゲラ笑わせています

この先やりたいことですか?映画の監督もしましたし、Eテレの『いないないばあっ!』という番組で、麻里の夫のKくんが作曲、僕の作詞で歌も作ったし、夢はほとんど実現しちゃったかな。

あ、朝ドラに出てみたいですね! 朝ドラに出ると、みんな注目してくれるし(笑)。娘に「そんなこと言うなよ」なんて突っ込まれる、明るくてダメなお父さん役。実現するように、ぜひ書いておいてください(笑)。

【阿部民子=構成、菅野健児=撮影】

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