の手エリアは奥秩父を源流とする「荒川」、岩淵水門(北区)から下流から現在の「隅田川」、更にその支流の「石神井川」などの川が流れています。これらの川と、その流域であるこの街の形成の間には、歴史的にも深い関係があるのです。
万葉の時代から歌にも詠まれた隅田川。江戸時代には大規模な河川整備が行われるとともに、その支流や掘割のネットワークを活かした舟運も発達しました。これによって、流域には諸国からの様々な物資が運び込まれることとなり、周辺はそれを取引する商業で賑わい、諸工業も生まれていきました。そして、それら産業に携わる人々、職人たちの町として独特の下町文化が育まれていったのです。
時代が江戸から明治に移り、川の水運と工業用水機能を活かし、様々な近代工業が発達していきます。大正期から昭和期にかけて、関東大震災で東京の旧市街地が焼け野原となった後には、隅田川沿いを中心に工場立地が集中的に進み、その周辺には工場で働く人々の生活の場が広がっていったのです。当時の日本の近代化、それによってもたらされた工業生産を担っていったのは、まさにこのエリアであったといえるでしょう。

自転車で橋を渡る人々

荒川河川敷
大正5年には度重なる洪水の被害を受け続けた東京下町一帯を守るために、荒川放水路(現在の荒川)の開削事業が始まりました。この大事業には当時の世界最先端を行く土木技術が投入され、延べ310万人の人々が工事に携わり、昭和5年に完了しました。これによって、川筋も、街並みも大きく変貌をとげることとなり、現在へと至っています。
現在、このエリアには旧き時代をしのばせる名所旧跡や建造物が残る中に、新しい時代を象徴する 高層ビルやモダンな建築物等が建てられて日々、新しい都市景観へと生まれ変わりつつあります。また、川にとって変わるように幾つもの鉄道路線が行き交い、都心から郊外へ、北関東や常磐方面等の遠隔地との結節点にもなって、更には海外への玄関としての役割も担うエリアとして成長を続けています。
しかし、いつの時代にあっても、川はこのエリアの生活とは切り離せない大切な資源であり、この街に住む人の“心の原風景”であり続けるることに変わりはないようです。