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歴史街道Wa.7 遥かなる平城宮を望む
イメージ写真 今からおよそ1300年前、藤原京から平城京に遷都された。理由はまず一つめに、藤原京が狭すぎたこと。また藤原京は南から北に下がるように傾斜していたため、北側に置く、大極殿が地形的に一番低くなっていた。奈良盆地最北端の平城の地に移れば北が高いので理想通りに皇都が築けたのだろう。幸い、平城の地は交通・経済の面でも有利な場所で、建築に要する木材も近江・伊賀から運び、木津で陸揚げすればよかったのである。他にも理由はいくつか伝えられているが、とにかく藤原京の3倍以上もある壮大な都がここに造られた。平城京は入り口である羅城門をくぐると、75mもの幅を持つ朱雀大路がまっすぐ北へ延び、その4km先に宮殿や役所のある平城宮の正門、”朱雀門“が建っていた。朱雀は南を守る鳥の意味で、東西約25m、南北約10mの大きさがあり、左右に高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を囲んでいたという。朱塗りの柱、瓦屋根…今みても雄々しいその姿はこの都の権威そのものであった気がする。地図
平城京の中心となる平城宮が他の日本古代都城の宮殿地区と異なるのは、東の張り出し部を持つことであるそうだ。ここは孝謙・称徳天皇の時代、特に”東院“と呼ばれ、宴会や儀式が催された。最近の研究では光仁天皇の”楊梅宮“、聖武天皇の”南苑“もここを中心に営まれていたらしい。東院庭園は東西約60m、南北約60mの、南から見て逆L字形の池を中心とし、中央建物(正殿)から池に張り出す露台がつき、東岸と平橋で結ばれていた。その北側には反橋があり、築山石組、州浜など自然を活かした平安時代以降の庭園の原形とも言える優美さが感じられる。棚田翁像
 天皇と100人余りの貴族を頂点に15万〜20万の人々が暮らしていたとされる平城京。唐や新羅、渤海などの諸外国との往来も盛んであった国際都市。遙かなる時を越えて、私たちが求める理想の都がここに存在した。
 朱雀門の南側にひっそりと佇む像があった。右手は大極殿のほうを指し、左手に出土した瓦を持つその人物は、棚田嘉十郎。奈良公園の植木職であった彼が私財を投げうって人々に呼びかけ、国を動かし宮跡保存運動を推進した。この他にも数多くの人々の熱意と苦労、協力なくしては保存され甦ることもなかったであろう。感慨無量となった。
(参考文献) 「平城京再現」 坪井清足
監修 奈良国立文化財研究所
「日本の古代宮都」 岸俊夫 岩波文庫
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