【一覧に戻る】
歴史街道Wa.21 かつて聖武天皇が築いた都 恭仁京
風光明媚な地・瓶原
JR木津駅の一つ東よりの加茂駅を出発地点とし、北へ歩き、聖武天皇が恭仁京へ遷都された時に木津川に架けられたという恭仁大橋を渡ります。
木津川はかつては泉川(いずみがわ)と呼ばれており、橋の南側に「みかの原わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ」と詠まれた小倉百人一首の歌碑が建てられています。
そして、橋の北側の小公園には「今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」と大伴家持が詠んだ万葉歌碑が建てられています。ここに新しい恭仁京をお造りになるのは、山や川の清らかな景色を見るともっともなことだ、と讃えています。
四方を小高い山に囲まれた加茂盆地は、北が高く、南になだらかで、中央を流れる清流は多くの恵みをもたらし、水陸交通の要所でもありました。
幻の都といわれた恭仁京
聖武天皇の時代は、貴族間の権力抗争が起こったり、疫病が流行したり、政治的にも社会的にも不安が増していました。天平12年(740)、藤原広嗣の乱が起こると、聖武天皇は平城京を出て伊勢、美濃へと彷徨した後、加茂の地に都を造ることを宣言しました。恭仁(クニ)は国を表します。
すでに加茂には奈良時代初めから離宮が造られ、行幸(ぎょうこう)も度々行われ、都人にはよく知られていましたが、遷都というのはよほどのことです。ところが、造営の途中で近江紫香楽宮(しがらきのみや)に移り、天平16年(744)には難波京へ遷都、そしてその翌年には平城京に都を戻しました。
恭仁京は短命な都で終わってしまいましたが、この間に国分寺・国分尼寺と大仏建立の詔(みことのり)を発し、実現されたことは歴史上、意義深いものとなりました。
恭仁大橋から北西に歩き、国道163号を渡り、恭仁京跡へ。今は広場になっており、その中心に天皇の住まいや国政を司る恭仁宮が造られていました。昭和48年度から進められている発掘調査により、宮城(きゅうじょう)は南北約750m、東西約560mの広さで、平城宮より少し小さいものの、かなりの規模の造営であったと思われます。恭仁小学校の北側に残る基壇が大極殿跡(だいごくでんあと)とされています。大極殿は平城宮から移築されたものです。
恭仁宮はその後、山城国分寺として造り替えられ、新たに七重塔も建てられました。現在、塔跡の礎石が残っており、「山城国分寺跡」の石碑や説明板が建てられています。このあたり、秋にはコスモスが一面に咲き誇り、はかなげな美しさを漂わせています。
瓶原が一望できる海住山寺
恭仁宮については、宮跡から国道163号を西へ、山城町上狛にある「京都府立山城郷土資料館」に史料が展示されています。一方、海住山寺へ足をのばすのもおすすめです。
恭仁宮跡から「海住山寺」の標識に従い、田畑や民家の間の道を上って行くと、茶畑も広がってきます。瓶原を一望できる山の中腹にある海住山寺は、恭仁京造営に先立つ天平7年(735)に聖武天皇の発願により、東大寺の良弁(ろうべん)僧正が開創したと伝えられています。
五重塔は鎌倉時代の傑作で、国宝。今年は10月25日〜11月3日、五重塔開扉と、平安時代の作で重要文化財の十一面観音像などが公開されます。桜、サツキ、紅葉、南天と四季折々の花が楽しめるのも魅力です。
独立行政法人都市再生機構 西日本支社 関西文化学術研究都市事業本部 〒619-0223 京都府木津川市相楽台1丁目5番地 TEL.0774(72)7766

All Rights Reserved. Copyright (c) 2004--2011 Urban Renaissance Agency.