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歴史街道Wa.1 一休さんに会いたい
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 一休さんといえば、我々はたいがい、あの頓智の一休さんを思いうかべる。いわば国民的アイドルとしての印象が強いが、一休その人の実像については「知る人ぞ知る」という人物ではないだろうか。
 一休禅師、名は宗純。後小松天皇の皇子として生まれながら、争乱の時代にあって六歳で出家、なみなみならぬ禅の修行を積む。生涯を通じて鋭い社会批判に徹し、庶民のなかに分け入り民衆禅を説いた臨済宗の高僧。
 諸所巡歴の後、七十四歳で薪の酬恩庵にはいる。そして晩年の一休のかたわらには森女という美しい盲目の女性がよりそうように暮らしていたという。自ら「狂雲子」と号した一休は虚か実か、その著『狂雲集』のなかで盲森女へのあふれんばかりの愛を赤裸々にあらわす。半端に読めば赤面するほどに。
 一休は八十八歳で没する。その間、八十一歳で大徳寺住持となるが、大徳寺へはここ薪の酬恩庵から通ったといわれる。
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 酬恩庵一休寺の総門をくぐると、まずは目につく一休禅師墨跡の碑。その自在な墨跡を見ていると「おやおやこれは、ただものではないぞ」という思いにかられる。  わるいことをするな、いいことをせよ。そして仏法とは、自分の力で心を浄める道だ。ただいっていることはそれだけである。一切の余分な修辞をとりはらった唐代の詩人白居易と禅匠との有名な問答である。一休は、竹筆に墨をたっぷりつけ、一気に書きおろしたものといわれるを浄める道だ。ただいっていることはそれだけである。 一切の余分な修辞をとりはらった、唐代の詩人白居易との有名な問答である。イメージ写真一休は、竹筆に墨をたっぷりつけ、一気に書きおろしたものといわれる。
 雨上がりのさわやかな境内を、地元の郷土史家・西川滋氏のお話を聞きながらめぐっているうちに、軽妙なる頓智の一休さんのイメージはそれとして、いかにも人間味あふれる一休像が心にうかんできた。そうなると境内の散策もにわかに興をおびてくる。
あふれる一休像が心にうかんできた。そうなると境内の散策もにわかに興をおびてくる。
 本堂、開山堂、宝物殿をめぐり、方丈にあがる。ここで一休の木像に会うわけだがこの一瞬はやはりたじろぐ。「しかめつらしくやっているけど、人間なんて所詮こんなものだよ」とでもいいたげな、髭をはやした一休禅師の木像があった。時の権力・足利幕府に結びつく僧たちへの反骨一休の真骨頂を、ヒューマニスト一休を、この像に見る。
 方丈を取り巻くように名勝指定の庭がある。縁側にたたずむと、一休と森女がともに暮らしたといわれる虎丘庵も見える。
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