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Special Interview UR×Shun Akasegawa 直木賞作家、赤瀬川隼さんが語るUR賃貸住宅での暮らし

最先端の生活水準。当時、2DKというのは、斬新だったねえ。

「生涯借家主義」。 直木賞作家・赤瀬川隼が、著書(※1)に収めているエッセイのタイトルである。
 赤瀬川氏はずっと社宅や団地住まいを続けている。その背景を、思い出とともにうかがった。

赤瀬川氏は、昭和6年(1931年)、三重に生まれた。小さな頃から父親の仕事の関係で、転居と転校を繰り返す暮らしだった。そうした生活の中で、社宅や団地住まいの方が自身の生き方にとって自然だという感覚が身についていく。

僕は自分の生まれた家も知らないくらいに、とにかく引っ越しの経験をたくさんした。芦屋、門司、横浜、大分、小学校だけで4回も移っている。でも転校は楽しみでしたよ。「次はどんな所なんだろう」と。転校生というだけで人気者になれたしね。僕自身、自然と順応性は高くなったな。それは今でも自分のなかで財産として残っている。けれど、財産としての家は、生涯、親父も僕も持ったことがない。

そんな赤瀬川氏と団地とのつきあいは、昭和36年(1961年)、30歳の頃より始まる。UR都市機構の前身、旧日本住宅公団が昭和30年(1955年)に発足。住宅難だった時代に建設され始めた団地はまたたく間に全国へ広まった。

20代後半で結婚したんだけれど、当時の一般家庭は間借り生活がふつうだった。たいてい他人の家の2階を借りる。もともと人に貸すために建てているわけじゃないから、風呂も炊事もなにからなにまで、1階に降りなきゃ用を足せない。鍋や器を持って1階へ降りて、炊事をして、つくったものを持って、また階段で2階へあがる。それが当たり前の新婚生活だったんですね。やがて北九州市の門司駅のまん前の一等地に柳団地ができて、抽選でやっと当たって、引っ越したのが昭和36年(1961年)。ラッキーだったんじゃないかな。公団住宅といえば、当時の最先端の生活水準。2DKというのは、斬新でしたねえ。(UR賃貸住宅は、当時公団住宅とよばれていた)

赤瀬川氏は、一時単身赴任や間借りの期間はあるものの、以後団地を住まいにしている。門司の柳団地、名古屋の高蔵寺ニュータウンの藤山台団地、横浜の左近山団地。そして現在は十日市場ヒルタウン(※2)。なかでも左近山団地には25年もの間暮らしていた。その間に、51歳にして近未来野球小説で第4回吉川英治文学新人賞を、63歳にして野球小説で第113回直木賞を受賞する。

左近山団地に住んでいた期間が長いというけれど、僕の印象では長いと思っていない。そこでいろんなことが起きちゃったから、それでそう感じないのかもしれないな。2人いる娘は、近くの中学、高校、大学を出て、結婚して嫁ぐまで左近山団地で育ったし、僕ら家族と暮らしていた親父もそこで亡くなった。もともと大正・昭和時代のサラリーマンにしては、野球が大好きな人でね。その親父の影響で、僕も、中等野球、今でいう高校野球の前身だけど、そのファンになった。僕の子ども時代は戦前だから、その頃の遊びは、三角ベースの野球(※3)だった。本当の野球を見たのは、親父に連れられて行った甲子園。小学生の僕には、選手はみんな英雄に見えましたね。それから、空気みたいに野球がずっと染み付いてきたんですよ。そういえば25年もの間には、横浜ベイスターズが38年ぶりに優勝する(※4)ということもあって。
僕自身はといえば、2つ目の仕事を辞めて、ひまになって。2DKの部屋で僕ができることといったら、子どもの頃から好きな野球か映画の文章書くくらいしかなかった。そこで物書きになって、直木賞をもらって…。
…いや、いろんなことありましたね。賞をもらった平成7年

(1995年)は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件があったし、野茂はメジャーリーグで大活躍して新人王をとったしね。

そして平成11年(1999年)、赤瀬川氏は、21軒目の転居先となる十日市場ヒルタウンへ引っ越す。きっかけは、両親を心配して、十日市場に住む娘さんから近くに住まないかと誘われたからと奥さんはいうが…。赤瀬川氏は60代後半、老年を迎えつつあった。

今、僕は足を悪くして、車椅子生活なんだけれど、風呂場もトイレも広いし、部屋の中の段差も少ない。近くで買い物はできるし、そこに桜も咲く。娘も近くに住んでいて、孫もいる。孫は男の子で力があるから、車椅子を押してもらって、近くの散髪屋へ行ったり、食事に出たりしている。今の住まいは、僕ら老夫婦二人の住まいにしては、広さや設備、平らな感じなど、快適ですよ。

赤瀬川氏は、転勤や老後といった生活状況による変化も身軽に受け止めてきた。それができるのもまた住み替えられる“借家”だからこそ。「人間は、どんな資産家でも、死ねば一切の所有関係を離れ、骨になり、墓という借地で土に還る。それなら生きているときから借りたままのほうが一貫性があるじゃないかと、僕などは開き直りたくなる」赤瀬川氏の著書(※1)のなかからの言葉である。

僕のなかでは、住まいというのは、生活のひとつの機能。暮らしていく上で、空間としては必要なものではあるけれど、自分の財産である必要はないと思う。賃貸住宅と戸建で、周りの状況は大きく変わるものなのかな? 僕は作家になるまで転勤の繰り返しだったけれど、そういう生活の軌跡が、土地住宅をそうとらえさせたのかもしれない。もちろん、快適であることへの欲はある。今は、長期のローンを組んで生活を切り詰めてまで土地住宅という財産を持とうとするのが普通なんでしょう?でも、僕にはそういう情熱がずっとない。自分の財産として持つよりも、家賃払って住んだほうが気が楽でね。集合住宅の方が性に合っているんでしょう。集合住宅だけれど、ここでのルールを守りながら、それぞれが自由にやれますから。満足すべき状態に落ち着いたのかもしれませんね。

※インタビュー取材日:平成22年3月18日


The Memories of Akasegawa

変色した台紙のアルバムには、たくさんの記録が残してある。門司の柳団地に引っ越したときの挨拶状、若かりし頃の赤瀬川夫妻、齢3歳ほどの長女の姿…。
直線的なラインで構成された柳団地を背景にした写真もある。ところどころに寄せられたコメントが、父親としての素顔を見せてくれる。

Profile

昭和6年(1931年)三重県生まれ。銀行、外国語教育機関、書店等に勤務後、文筆業に。『球は転々宇宙間』により吉川英治文学新人賞を、『白球残映』により第113回直木賞を受賞。その他主な著書に『映画館を出ると焼跡だった』(草思社)『ダイヤモンドの四季』(新潮社)などがある。
『白球残映』文春文庫・1998年発行

※1 『つれづれつらつらー暮らしの散歩道』興陽館新書 2000年
※2 赤瀬川氏のUR賃貸住宅居住歴
 昭和36年(1961年)〜昭和41年(1966年)
   北九州市門司区の柳団地
 昭和44年(1969年)〜昭和49年(1974年)
   名古屋市高蔵寺ニュータウンの藤山台団地
 昭和49年(1974年)〜平成11年(1999年)
   横浜市旭区の左近山団地
 平成11年(1999年)〜現在平成22年(2010年)
   横浜市緑区の十日市場ヒルタウン
※3 2塁ベースのない野球。野球の道具のなかった
戦時前後の子どもたちが工夫して編み出した遊び。
※4 平成10年(1998年)、権藤博監督のもとリーグ優勝・日本一となる。
赤瀬川氏は、この球団のファンである。

出展・参考文献
『つれづれつらつらー暮らしの散歩道』興陽館新書 2000年
『人は道草を食って生きる』主婦の友社 2001年


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